池田さんの最近の「神がかった」エントリーを読んで、10年以上むかしに書いた拙文を思い出しました。
これはイギリスの物書き、ウィリアム・ダルリンプル(William Dalrymple)が脚本とプレゼンターを勤めたBBCテレビの「Indian Journeys」というインドに関するドキュメンタリー・シリーズのエピソードのひとつ、「Doubting Thomas」を観ての感想文です(初放映は2000年4月17日)
以下に編集を加えたバージョンを掲載します。
先日BBC2で質の高い番組を見た。「Indian Journeys」という紀行もので、インドに暮らして10ン年という、William Dalrympleというイギリス人ジャーナリストが地味ながら説得力のあるプレゼンターで、彼自身が脚本も書いたらしい。
この「Indian Journeys」は一見して低コストながら、いかにも丁寧に作られたということが一見して分かる。どうみても撮影現場にはWilliam兄ちゃんと数名のカメラクルーぐらいしかいなかったようだ。そのかわり制作には2年ぐらいかかったらしい。全体的には3部構成で、第一回はヒンドゥー教徒達の巡礼地、ガンジス川の水源地をヒマラヤ山脈奥深くまでたどる紀行もの。第二回目はヒンドゥー教徒とイスラム教徒達が一触即発状態で共存するニューデリーを取り上げたルポルタージュ風。しかし私にとって一番面白かったのは三作目、「Doubting Thomas」だった。
この「Doubting Thomas」はイエス・キリストの十二使徒の一人、聖トーマスがキリストの死後(信者の皆様には復活・昇天後ですね)、実はインドへ伝道の旅に出て、現在の南インド、タミール・ナドゥ州のマドラスで殉教したらしいという伝説を追ったものだった。
ちなみになぜ題名が「“Doubting” Thomas」なのかというと、トーマス君、一筋縄ではいかない人物だったようで、キリストがゴルゴタの丘の上で処刑された後、復活してきて使徒達の前に姿を現した時、疑り深い(つまり“doubting”な)トーマス君は、
「本当に貴方はイエスさんですか~」
と、イエスが十字架上、槍で受けた胸の傷口に指を突っ込んで確かめたという(新約聖書ヨハネ伝20章)。トーマス君、ただ者じゃなかった…。またこの聖トーマスの東方への伝道と殉教の伝説は長い間、そして現在でも、異端の伝説として疑われている(要するに“doubt”されている)という事実にもかけてある。
その信憑性を疑われていたトーマス君のインド行。番組はエジプトのイスラエル国境寄り、シナイ半島のとある禿山の上にある聖キャサリン僧院の図書館に保存された古文書から始まった。その古文書こそはトーマス君のインド紀行を綴った「Acts of St. Thomas」、いわば「聖トーマスの記録」だったのだ。この記録は異端の伝説を流布するものとして、西側のキリスト教世界では、焚書の対象になっていたものらしいが、イスラム世界のなかで孤島的存在であった砂漠の中の僧院には残存していたのであった。
どうやらトーマス君、最初は疑い深い性格だったのが、突然東方への布教を目指す使命感と信仰心に燃えてしまったらしい。イェルサレムから地中海世界に主に香辛料などをもたらした交易路を南にたどり、紅海沿岸の港町、映画「アラビアのローレンス」でも有名なアカバあたりにたどり着く。そこから海路紅海を南下し、アラビア半島のかかとからエイヤッとばかりに西インド洋をわたってインド南西部のマラバー海岸のいずこにか辿り着いたという。
この地方では今でもキリスト信者が多く、聖トーマスのインド行は彼らの信仰の礎としてみなされている。またかれらが信仰するキリスト教は、西側のキリスト教に比べると、よりオリジナルに近いものだということだ。礼拝もラテン語ではなく、イエス自身が話したアラム語で行われている。しかしながら兄弟愛を説いたキリスト教もインドに根の深い階級制度には勝てず、信者達が不可触賤民階級の人達に、別の教会を建ててあてがっているのがお国事情といったところ。また宗教的活動として、尼僧のシスター達が独特の「踊り」を披露したのも、インドならでは。あの歌あり、踊りありのインド映画の精神は、宗教界にも根差しているものらしい。歌って踊れるシスターなんて「サウンド・オブ・ミュージック」以来である。
トーマス君は南インドの西海岸地方での布教にある程度の成功を収めると、信者達が止めるのを振り切り、今生の別れを告げ、南インドの最大都市マドラスへ向けて旅立つ。一体全体、トーマス君どうしてしまったのだろう。元をただせばしがないパレスティナ地方の一大工(つまりはイエスやイエスの父ヨゼフなどの同業者だったわけだ)。何が彼に勇気と使命感を与えたのか…。信仰の力は偉大なるかな、である。
結局トーマス君はマドラスで既存のヒンドゥー宗教指導者達と、彼らを支持するマハラジャの手により、礼拝堂としていた町を見下ろす丘の上の洞窟内で殺害されたという。現在その殉教の場とされる丘の上には、小さいながら古さびた、古き良き日本語の表現を使えば「神さびた」、教会が立っている。その教会の存在と、現在にいたるインドのキリスト教信者達の長く根強い歴史はトーマス君の情熱と偉業への永遠のはなむけのような気がした。
しかしこの初期キリスト教会のロマンあふれるエピソードの記憶を抹殺することに一番熱を上げたのが、インド土着のヒンドゥー教でも、後にムガール帝国と共にインド亜大陸を席巻したイスラム教でもなく、後にヨーロッパ人によってもたらされたキリスト教だったというのは歴史の皮肉。
ヴァスコ・ダ・ガマが希望峰周りのインド航路を発見したことにより、大挙押し寄せたヨーロッパからの侵略者達は、土着のインド・キリスト教を自らのカソリック・キリスト教に対する異端と決め付け、これを迫害したのだった。
先に述べたように、正統性ということではインドのキリスト教の方が、新興ヨーロッパのカソリック・キリスト教などより優れているのは明らかなのだが、ヨーロッパ人たちは信者達を弾圧し、東方情緒あふれる教会を自らのヨーロッパ風の装飾で飾り立てたのであった。
プレゼンターのウィリアム君がヨーロッパ人の顔をした、マリア様やキリスト像、はたまた聖トーマス像などの装飾品の裏、教会の古い壁に残る、ハッキリと東方風の顔をしたキリスト像を指し示す映像には、ヨーロッパ人侵略者達の無知と横暴に対する怒りを覚えてしまい、思わずこぶしを握ってしまった。しかも聖トーマスのインド伝説が非常に信憑性の高いものであるにもかかわらず、現在にいたるまでヨーロッパでは受け入れられていないという。ウィリアム君が番組中強調していたことだが、キリスト教はその起源において非常に東方的なのだ。
このキリスト教の東方性は最近私の頭の中でも強く根差しはじめている考えであり、この番組のおかげでその確信は一段と高まった。
キリスト教を産む母体となったユダヤ教はおそらく現存する世界最古の一神教であろう。今でこそ世界三大宗教の内、キリスト教とイスラム教というユダヤ教をその母体とする一神教が世界を席巻していて、一人の神様を祭るのが当たり前のように思われているが、この一神教というコンセプトは古代においては多分、かなり珍しいマイノリティだったのだ。しかもこの一神教の神様というのが、すこぶる愛想が悪いのである。若くて綺麗な女に目がないゼウスさんや、いじけて洞窟にこもっちゃうアマテラスちゃんなどに比べて、エホバの神様ときたら、なんってたって完全無欠。全能の神様なのだが、そのわりに怒りっぽい。旧約聖書でもエホバは「嫉妬深い神」、Jealous Godとして紹介される。
このエホバ様、自分の民がいうこと聞かず、信心が薄くなったとみなすと迷惑千万、とんでもないことをする。大洪水を起こし自分のお気に入りのノアとその家族だけをえこひいきし、残りは全員水死させるとか、空から火を降らせてソドムとゴモラの町を壊滅させるとか、とにかく人騒がせなのだ。ゴモラの町を滅ぼした時なんて、信心深かったロトとその家族だけは助けてあげるといって町を早期避難させるのだが、火が降り始めて後にした町がとんでもないことになっているのを一目見ようと振り返ったロトの奥さんをあっという間に塩の柱にかえてしまう。
なんてたってモーゼが持ち帰った十戒の第一則が「私以外の神を信仰してはいけない」、というのだからこの神様の嫉妬心は並大抵ではない。「殺すな」とか、「盗むな」以前に「俺だけだゾ」というのだから。モーゼが十戒を山の上から持ち帰ってみると、モーゼがせっかくエジプトから脱出させてきたイスラエルの民が、黄金の子牛を崇め祭っていたというので、イスラエルの民はこの後えらい苦労をして荒涼とした砂漠地帯を放浪するはめになる。モーゼの弟アーロンが、放浪のさなか、水が欲しいという人民を満足させようと岩をたたいて清水を湧き出させたところ、ちょっとばっかり自慢して「すごいだろ、オレ」など言っただけで、神様「俺がやった奇跡のことを自分の手柄にするな」と怒っちゃう。おかげでモーゼもこの弟の僅かな虚栄心の罪に連座して、長い放浪の後、やっとたどり着いた「約束の地」をただ遠くに眺めるだけしか許されず、結局彼自身は「約束の地」に入れないのだ。
かくしてエホバの神様、「怒らせると怖い」ということばかり強調されて、じゃあ信心深くしていればなんかいいことあるんですか、といってもこれがあまりない。予言者ダニエルがライオンのいる洞窟に投げ込まれても、神の御加護で食われなくてすんだ、ということになっているが、できたらそんなところに投げ込まれる前に救って欲しいと思うのはすこぶる信心がない私だけだろうか。ダニエルだってエホバの神を信仰してなければ洞窟なんかにぶち込まれずにすんだのだから。もちろんそのうちメシア・救世者が現れて、地上の楽園がエデンの園以来また復活します。その時、信心深いあなたには楽園の永久会員権を差し上げます、という売り文句もあるにはあったのだが、どうもこれも空手形くさい観はまぬがれない。このメシアの予定到着時間というのが今一つハッキリしないのだ。
そんなわけでエホバの神様と、彼を祭るいわゆる司祭階級、ユダヤ宗教界のエリート達は
「ちゃんと信心しないと、ひどいよひどいよ」
という鞭と、来る楽園の永久会員権という飴でイスラエルの民草を治めていたようなのだが、やはりイエスが現れる頃になると民草の忍耐も尽きてきたらしい。そりゃそうだろう。待てど暮らせどメシアや楽園なんかいつやってくるか分からないし、それを待っている間の苦労がまたひどい。その昔はエジプトに連れて行かれたり、バビロニアに囚われて行ったり、最近でははるか彼方、イタリア半島からやって来たローマ人達に征服されるわで、まさに踏んだり蹴ったり殴られたり。モーゼが連れてきた「約束の地」は、なんでこんな地を約束されたのか…石ころばかりで土地が痩せている。しかも昔と違って、ローマ人の治世下、平和がのんべんだらりと続くような状況では、前のように隣町のジェリコへ行って華々しく城壁をぶち壊し、ちょっとしたジェノサイドで憂さを晴らしに行くこともできない。全能の神様に導かれているわりには、どうも神様いくらなんでもこれはちょっと面倒見が悪いんでないかい、と思ったとしても不思議ではない。こんな身の不運を嘆く民衆に、宗教界のエリートは馬鹿なオウムの一つ覚えのように
「それはあなた方の信心が薄いからです」。
これでは人々の宗教離れが進んだとしてもおかしくはないだろう。
こんなユダヤ人たちの宗教離れが進む中、イエスの登場と共にスポットライトがあたるのが「悪魔」の存在である。旧約聖書の中でも「堕天使」として悪魔的キャラクターは登場していたのだが、いかんせん「旧約」の世界は全能の神、エホバのひとり舞台。これがイエスの時代、つまりは「新約」の世界になると「悪魔」の存在が準主役級として重きを成すようになる。
このユダヤ・キリスト教における「悪魔」のコンセプトが、紀元前5世紀頃、イスラエルの地から東にあたるペルシア北部で発生したゾロアスター教(拝火教)の影響によるものではなかったのではあるまいかという説があり、私もこれに同感する。大王ダリウスやゼルゼスなどの統治下繁栄したアハメニッド朝ペルシアで国教とされたゾロアスター教の最大の特徴は、その二元性にある。ゾロアスター教の世界観は真理の神アフラ・マズダと、虚偽の神アーリマンの闘争であり、アフラ・マズダの真理の光はアーリマンの暗黒を駆逐すものとされ、翻ってゾロアスター教の教えは闇を照らす火を崇拝するというものである。
この世の「悪」の存在を、公に認めたゾロアスター教の教理は、エホバの神の怠慢の言い訳を信者の不信心に転嫁するしか能の無かったユダヤ教の教会指導者にとって、渡りに船の好アイディアであったろう。
「どうして僕たち報われないんですか…」
「それはオマエ…実は悪魔というのがおってな…」
てな具合である。以来、ユダヤ人達は目の上のたんこぶとなったローマ帝国の為政者達を、ただの異教徒・異端の者としてだけでなく、「悪魔の手先」としてみるようになる。この傾向は後になってからの新約の「ヨハネの黙示録」などの記述に顕著だ。イエス問題に当事者として関わらなければならなくなったローマ帝国のユダヤ総督、ポンティウス・ピラトなどはこの様なユダヤ教会内における不穏な動きを肌に感じていたのではあるまいか。
新約聖書の中心部を占めるイエス自身の物語において「悪魔」がその劇的な登場をするのは、宗教的使命感に目覚めたイエスが山上で瞑想しているところに現れ、あの手この手でイエスを誘惑しようとする場面である(マタイ17章、マルコ9章、ルカ9章)。
このイエスが瞑想にふけったという山は、ユダヤ地方の東に位置し、ペルシア、ひいてはその宗教であったゾロアスター教の影響を強く受けていた地域であり、実際に当時ゾロアスター教信者のコミュニティーがあったらしいという。これはもう暗示的を通り越して状況証拠万全である。キリスト教はその根本においてゾロアスター教に代表される東方の神秘主義的な宗教の影響を深く受けていたのだ。その影響は哲学に根差したギリシャ・ローマの古典的な合理主義的世界観とは異なり、また全能の神を祭る一神教であったユダヤ教ともその趣を異にしたものだったのだ。
キリスト教の東方起源説と共に私が最近考えているのは、キリスト教はその発生において多分に貧富の差からきた階級闘争的であったのではないかという考えである。
イエスが登場する前後の時代、ユダヤ地方はローマの覇権を受け入れたことによる政治的不安や、前述のような宗教界内における不穏な動きがあったとしても、経済的には絶対繁栄していたと私は確信している。それなぜか。
カスピ海と黒海の周辺にその本拠地を置き、同盟関係を持ってして共和制末期のローマの覇権の東辺を脅かしていたポントスとアルメニアの両国にローマの名将ポンペイウスが最終的勝利を収めたのが紀元前63年。約30年近きにわたるこの地方の戦乱に終止符を打った。ポンペイウスはこのオリエント制圧行の途上、紀元前63年にイェルサレムに入城している。
はるか西方のイタリアからやって来た軍事国の勢力圏内に入ることに対して、ユダヤの指導者層の間に不満があったことは想像に難くない。しかしローマの治世下にようやく訪れた平和は、近隣の国々から常々いじめられていた小国ユダヤにとっては何はともあれよかった、よかったといったところだったと思う。それに何よりもまして持続的な平和は経済活動、特に貿易活動の活性化につながる。
ユダヤ地方はもともとその地を利して東地中海における交易路の一大ハブであったはずなのだ。地中海の東端に位置しており、東方はペルシアに通じ、南は右に曲がれば当時の大穀倉地帯であったナイル沿岸のエジプトに、そのままいけば前述したトーマス君も通って行った果てはインドにつながる海洋交易路につながる。しかしこれらの交易ルートがフルに活動する為には全オリエント的平和が大前提で、これを図らずもローマ共和国が保証してくれたわけだ。
これに加えてユダヤ人にとって儲けものだったのが、アレキサンダー大王の遺業に刺激されたローマ人たちが数回にわたって東方のペルシア(当時はパルティアと呼ばれていたらしい)征討を試みたことであったのではないかと私は考える。紀元前54年にはポンペイウス、ジュリアス・シーザーと共に第一次三頭政治(紀元前60年から)の一方の雄であったクラッススが4万の精鋭ローマ兵と共にペルシア征討に立ち上がるが、紀元前53年、カッレの戦いで大敗。クラッススは無残な戦死となる。以来ローマは復讐戦に燃え、シーザーとポンペイウスの内戦によって中断されるも、対ペルシア戦勝利はローマの念願として生き続けるのである。実際に紀元前44年、暗殺直前のシーザーはペルシア遠征の準備に予念が無かった。この東方における戦争なき継続的軍事行動はユダヤ人達に願ってもない、戦禍におびやされることのない軍需景気をもたらしていたのではないかしらんと思う私、うがちすぎでしょうか。
またシーザー対ポンペイウス、オクタヴィアヌス/アントニー対ブルータス/キャシアス、オクタヴィアヌス対アントニー/クレオパトラと三次にわたったローマの内戦(紀元前49年から30年まで)もユダヤ人達にとってはラッキーなことではなかったかと思うのだ。三回の内戦とも最終的な負け組はイタリアを辞してギリシャに本拠地を置いた。おかげでユダヤ人にとって東地中海ビジネスにおける最大のライバルであったギリシャ人たちは船を徴発されたり、重税をかけられたりで経済活動に打撃を与えられてしまった。また実際の戦闘もスペインや、北アフリカ、またギリシャのペロポネソス半島の西端部分で行われた為、ユダヤ人にとってはまったくの対岸の火事。これでは願ったり、かなったりではないか。
塩野七生さんは彼女のベストセラー、「ローマ人の物語」の中で、シーザーの死を人一倍悔やんだのがユダヤ人だったことをもって、それは彼が信教の自由を許した寛大な統治者であったからとしているが、いじわるな私にいわせれば、それはシーザーの個人的な魅力や宗教政策よりも、経済効果の方にその理由があったのではないかしらんと疑ってみたくもなる。
この歴史的背景認識からまた一歩踏み出て、これだけの好景気の要素に突然恵まれたユダヤ人たちの間に、社会不安が生じたのではないかと私は考える。つまりブームに上手く乗った成金商人たちと乗れなかった貧困層の間に溝ができてしまったのではないだろうか。なにせ新約の記述を読むとユダヤ人にとって最も神聖な場所であるはずのソロモン王が建てた寺院(テンプル)は両替商が店を構える一大取引所になってしまい、司祭達までが財テクに手を染めていたというのだから、当時のバブル景気、推して知るべしといったところだろう。ユダヤ教の権威は異端者ローマによってもたらされた繁栄と、司祭階級の腐敗によってここに失墜したわけである。おかげでこのイエス出現直前の時期、めぼしいユダヤ宗教界のリーダーは、現世の富に背を向けたヒッピーのような洗礼者ヨハネなのだ。このヨハネ君も成金パーティーで沸くヘロデ王とその娘サロメによってパーティーの余興として哀れにも斬首されてしまう。
こんな御時勢に登場するのが我らがイエス君なのである。聖書のどこにもそれと書いてはいないが、イエスと彼の支持者という連中は、これは決定的にバブルブームに乗りそこなった貧乏組なのだ。上手く立ち回って大金を成したのが、貿易商や両替商といったサービス産業、いわば第三次産業の面々であったのに対し、イエス君や前出のトーマス君は大工、使徒達のリーダー格だったピーター(ペテロ、しかしここは英語読みに統一させて頂く)は漁師と、いわば第一次、第二次産業の従事者。彼らは自らの貧困に不満を抱くと共に、成金グループの面々と彼らのモラル低下が甚だ面白くなかったのは容易に想像できる。
かくして東方の神秘主義思想の影響を受けて、宗教的にも論理武装したイエス君は支持者層の地盤を固めると、首都イェルサレムに乗り込みいちかばちかの賭けに出る。イェルサレム入城の折も、馬ではなくロバに乗ってくるという清貧をアピールしたパフォーマンス。そして手始めにやったのが経済活動の中心地、テンプルから商人達を追放するという、荒っぽくも派手なテロリスト行為だったというのだから、繁栄の陰で辛酸を味わってきた貧困層は快哉を叫んだにちがいないと私は思う。
結局のところイェルサレムにやってくることでポイント・オブ・ノーリターンを越えてしまったイエス君は、現状維持を望むユダヤ社会の成金指導者層にとっては無視することのできないトラブルメーカーとなってしまった。イエス君はゲッセマネの園で側近の使徒達とセミナー集会でもしていたおり捕まるが、逮捕に一役買った裏切りの使徒、ジューダスはお金と都市の魅力に目が眩んだのではあるまいか。裏切り者のジューダス君はなんとイエスのグループの金庫番を努めていたという話もある。かくしてイエス君は、穏便主義のローマ総督ポンティウス・ピラトが再三の助命を試みても、イエス除去で一致した成金イェルサレム市民の断固たる主張によってゴルゴタの丘に露と消えたのである。
この後、イエスは復活し、かつての支持者達の前にその姿を見せるという、聖書中の有名な段になるわけだが、それは信者の方々にお任せしよう。私が注目するのはイエス亡き後、イエスがイェルサレムに率いてきた支持者グループのその後の行動である。
地方出身の貧乏人が多かったであろう彼らは、やはり都会の魅力に抗し難かったのか、その後イェルサレムにとどまり、イエスの遺志を継いで、という形で活動を続ける。この際、最初期のキリスト教会ともいえるグループ中、彼らのリーダーとして登場するのがジェームズ(ヤコブ)なのだが、彼は実は十二使徒の一人ではない。使徒にも同じ名前のジェームズ君がいたのだが、リーダーに収まったジェームズは実はイエスの弟ジェームズだったのだ。このリーダー世襲の事実が私においてイエスの生前の活動が純粋な宗教活動ではなく、多分に階級闘争という政治的色合いを帯びていたものであったのではないかと考えさせる大きな一因なのだ。だって神の子の世襲なんてあるかぁ?しかし思い起こしてみよう。新約聖書冒頭、マタイ(マシュー)伝、最初のイエスのデイビッド(ダビデ)大王にまでさかのぼる血統図。イエスは甚だ怪しいながらもデイビッド大王からの血筋を主張してイェルサレムにやって来たのだ。このことからも彼、そして彼の支持者の最終目的はユダヤにおいて、成金指導者に取って代わり、政権を樹立することにあったとすることが妥当に思われる。その為に実際の最終為政者であるローマと直接の衝突は避けたのであろう(有名な「シーザーのものはシーザーに、神のものは神に」のくだりなどこの証左ではないだろうか。)
かくして好景気に沸く成金イェルサレムの中で貧困不満分子の拠り所となっていたと思われる初期のキリスト教会だが、この政治的な団体が一体どうやって現在のキリスト教を産みだす宗教的母体団体となったのであろうか。
この段にあって興味深いのは使徒ピーター(ペテロ)の始末である。彼はイエスも認める十二使徒達のリーダー格であった人物だ。つまりはイエス・グループ内で、イエス亡き後の宗教的サークルの中におけるリーダー格であったと考えて差し支えないと思う。しかしイエス死後(昇天後)、グループのリーダーとして収まったのは、イエスの弟ジェームズ。ピーターには居心地が悪かったのではないだろうか。カソリック教会にいわせれば、ピーターはその後、西方に伝導の旅に出て、ローマに最初の教会を設立し(今の聖ペテロ大聖堂の元)、彼の地で殉教したことになっている。しかしこの伝説はどうも信憑性がないらしい。どうやら地中海の東北、はずれの町、アンティオキアまでは行ったらしいのだが、その後の足跡は定かではない。イエス亡き後のグループ内の主導権争いに破れ、身の置き場がなくなったピーターが放浪の果てに息を引き取ったと考える私はロマンチストに過ぎるであろうか。
イエスが始めた運動を、宗教的なものとして再包装し、全世界的に売り出したのは、これはもう聖ポールと決まっている。ローマ市民だったポール君、ダマスカスまで商用の旅路の途中、閃光に打たれてキリストの啓示を受け、伝導の使命に目覚めたことになっているが、まぁこれはハイハイと聞き流す程度のエピソードであろう。実際のところ、ポール君は現代のベンチャー・キャピタリストよろしく、キリスト教を乗っ取ってしまったというのが正解だと思う。
イェルサレムでジェームズやピーターに会い、十字架の登録商標の使用をライセンス契約で手に入れ、ポールは世界を目指してセールス旅行に出、彼と共に彼が説くところのキリストの「教え」も世界へと羽ばたいたのである。できたてほやほやのローマ帝国では、新興宗教は儲かった。共和制末期のローマはエジプト・ブームで良家の奥方はイシス神なんぞを崇拝するところ篤かった。キリスト教もポールの精力的なセールスマンシップが功を奏して、イエスが死んで一世代も経たない内にローマ帝国内に広まった。
ポールのすごいところは彼のメディア掌握力だろう。彼は既に各地に成長しつつあった信者グループに対し、精力的に彼のミッション・ステイトメントともいえるものを書き送った。新約聖書のほとんどは彼がローマ帝国各地に散らばった信者の人々に宛ててだしたメッセージ集である。そしてこれら彼のメッセージこそは、キリスト生前の言動と共にキリスト教の双輪を成す教義なのだ。いまあるキリスト教とはイエス主演、ポール制作・監督の映画なのだ。そして前述したとおり、この聖ポールの宗教は、トーマスがインドに植え付けた原始キリスト教と再会した時、後者を異端として徹底的に追求・迫害したのである。
後世の不始末はさておき、聖ポールの偉大なところは、ユダヤ地方の一革命分子の思想を、その本質を見極める事によって全世界において分かち合える一大宗教に仕上げたことだろう。しかし彼の脚色、ポスト・プロダクションがあまりに天才的だったので、生きたナマのイエスの姿が歴史の暗部に葬り去られしまった。それは信仰の為には良かった、または必要なことであったかもしれない。
追記:この文は、私が当時はまっていたアメリカの小説家、Gore Vidalの影響をかなり受けています。
ゾロアスター教については、彼の小説「Creation」に詳しく書いてあります。この小説は紀元前5世紀という時点で世界史を縦割した小説で、ゾロアスター教のほかに、当時、時を同じくして生まれた仏教、儒教、ギリシャ哲学などの黎明期に関する記述が面白い、お勧めの小説です。
またポールの伝道に関するものではVidalのパロディー小説「Live from Golgotha」が面白いです。ただこれはパロディーですので全部本気にしないで下さいね。
最後ですが、ポールが築いたキリスト教に降りかかる最初の災難、イエスの神性に関する教義紛争、三位一体派と反対派、アタナシウス派対アリウス派のスッタモンダに関しては、これまたVidalの最後のアンチ・キリスト教ローマ皇帝を描いた小説、「Julian」に詳しいので、これまたぜひ一読して下さい。