マンデラは、他の指導者とどこが違ったのか?

北村 隆司

マンデラ元南アフリカ大統領は、生まれ故郷Qunuにある自宅の居間から遙かに見渡せる、緑の丘の土に帰った。

ニューヨーク時間の真夜中から6時間以上に亘りCNNで放映された葬儀の実況を見ながら、私が先ず思い起こしたのが1990年にマンデラが初めてニューヨークを訪問した時の場面である。

リベラル派や一般庶民、黒人には英雄であったマンデラだが、当時の米国ではブッシュ(父)大統領を先頭に保守本流はデクラーク大統領(白人)を評価する傾向が強かった。


そのような中で、70万人を超える群集の熱狂的な歓迎に迎えられてマンハッタンンに到着したマンデラは、ABCテレビで全国中継されたタウンミーテイングで米国人に初めてその素顔を見せた。

1979年から2005年まで続いた「ナイトライン」と言う報道番組のアンカー役を務めた、英国生まれのユダヤ系の高名なジャーナリストであるテッド・コッペルが質問する形で進められたこのインタビューでは、幾つかの緊張した場面があった。

その一つがコッペルが「差別の撤廃と公正の実現の為に闘い続けた貴方が、人権無視のならず者国家の指導者で、反ユダヤ主義者としても悪名高いキューバのカストロ、リビアのカダフィ、PLOのアラファト等と親しくするのは理屈に合わない」と詰問調で質した場面であった。

これに対してマンデラは:
「貴方は何もお判りになっていない。幼い子供を含めた南アの黒人の老若男女が、白人でないと言う理由だけで貴方の国で作られた武器で殺されている最中に、我々を真っ先に支援して呉れた指導者がカストロであり、カダフィ、アラファトであった。それでも貴方は、私にこの人達と縁を切れというのか?
私は貴方に何と非難されようとも、我々の差別との闘いが孤独であった時代に支援して呉れた友人の恩を忘れる事は出来ないし、そもそも相手や状況によって自分の信念を変える様では、国を率いる人物には相応しいとは思わない。」
「貴方はご存じないかも知れないが、南アフリカで黒人弁護士を雇ってくれる白人事務所はユダヤ系事務所だけしかなく、私が弁護士としての一歩を踏み出せたのもユダヤ人弁護士事務所のお陰だと今でも感謝している。
現に、私がこれまでボスと呼んで敬愛し師匠として仰いで来た人物はユダヤ人の Sidelsky弁護士だけで、イスラエルの方針に反対する事が反ユダヤ主義だと言う事には同意できない。(注:世界の多くの国がアパルトヘイトボイコットに踏み切った後も、フランスとイスラエルは南ア政府に武器と財政援助を供給し続けていた)」

と諭すような静かな口調で応えると、会場を埋め尽くした5千人を越す聴衆は鳴り止まぬ拍手をマンデラに送り、コッペルは顔を真っ赤にして暫く言葉を失う場面があった。

するとマンデラは、コッペルの肩を叩くような仕草をしながら「テッド! もし貴方を困惑させて仕舞ったとしたら申し訳ない」と付け加えたが、何故かこの言葉が嫌味には聞こえなかったのもマンデラの人格のお陰であろう。

次に忘れがたい場面は、米国で中継された1995年に南アで開かれたのラグビーワールドカップでの南ア代表のスプリングボックスの優勝のシーンである。

黒人にとっては、アパルトヘイトの象徴的スポーツであったラグビーの南ア代表チームのジャージーは、ユダヤ人にとってのハーケンクロイツの様な存在であった。

そのグリーン&ゴールドのジャージーに身を包んだマンデラ大統領が、ニュージーランド代表チームのオールブラックスを15対12で破って優勝を決めた南ア代表スプリングボックスのフランソワ・ピナール主将と固い握手を交わしながら「我が国の為に頑張って呉れた君たちに感謝したい」と言って優勝杯を渡したシーンは、感激の歴史的瞬間で、特に、マオリ族の選手がいると言う理由で南アへの入国を禁止して来たオールブラックスを破っての優勝は、文字通り「ノーサイド精神」を代表する物としてはこれ以上の場面はなかった。
(アパルトヘイトの終焉を知らせるこの感激のシーンは添付のビデオhttps://www.youtube.com/watch?v=SL8WX7a-H2kを御参照戴きたい。
ここで歌われた南アフリカの国歌は、マンデラが国家の民族・人種による分裂を防ごうとして、黒人解放運動の象徴であった「神よ、アフリカに祝福を」とアパルトヘイト時代の国歌「南アフリカの呼び声」を組み合わせて制定されたたものだと言われている。

トーマス・フリードマンはNYタイムスにWhy Mandela Was Unique(マンデラは、何処がユニークであったのか)と言う記事を寄稿して「マンデラの死は一人の指導者の死以上に、我々が極めて高い道徳的な権威を失った事を意味している。1995年のラグビーワールドカップでの南ア優勝の物語を描いた米国映画『Invictus.-負けざる者たち』には、彼特有の高潔な倫理的権威を身につける事が出来た多くの教訓が示されているが、その第一は、反対者だけでなく、支持者に挑戦する強い意志が重要であると言う教訓である」と言う趣旨の事を書いている。

記者が、27年の獄中生活を終えて釈放されたマンデラに「貴方は監獄生活で何か変ったか?」と質問すると「大人になった」と答えた通り、出獄後の彼の活動の大半は同志の黒人に対して、白人が行なってきた永年に亘る過酷な差別への復讐を避けるように求め続けることに費やされた。

フリードマンはマンデラを失った後の現在の世界の問題点として、ドブ・シードマンの「世界の民衆は、権力と地位に頼る指導者には飽き飽きしており、崇高な道徳的権威に導かれた 純粋な指導力で民衆を鼓舞し向上させ、民衆が共に歩みたくなる様な指導者を待望している」と言う言葉を引用しているが、この意見は、欧米的な合理性だけではなく、無駄と思えるような人間くさい倫理観を標榜する感覚の大切さを指している気もする。

マンデラの多事多難な生涯は、常にアフリカ黒人の為に闘争を続けた反逆者、自由解放運動家、そして清廉な政治家であったが、このフリードマンの指摘するマンデラ精神は「優しさ」 「相手のことを想う」「我慢する」「自分を主張しない」「自分の価値基準を持つ」「周りの人に気遣いさせない」「自分の心は売らない」と言う「江戸っ子」気質を指していると思うのは飛躍だろうか?

確かに、権力も資金も無くその高い理想と倫理観を武器に世界を変えた指導者と言えば、頭に浮かぶのがガンジーであり、マンデラである。

ガンジーは法律大学院を卒業後、南アフリカで弁護士として開業したが、鉄道の一等車への乗車を拒否され荷物もろとも放り出されるなどの強烈な人種差別を体験したことを契機としてその生涯を非暴力不服従運動に捧げる事となった。

一方、今でこそ「和解」の象徴的存在のマンデラは、若かりし頃はANCに「民族の槍」という軍事組織を作り、それまでのANCの非暴力抵抗を武力闘争に方向転換する推進力になった中心人物の1人で、軍事組織の最初の司令官としてエチオピアに渡り同国の特殊部隊の司令官の下で「テロ活動」の訓練を受けて帰国後に国家反逆罪に問われ終身刑の判決を受けるなどガンジーとは可也異なる歩みをしてきた人物であった。
生い立ちの共通点としては、共に地方の有力者の子弟として生まれながら、少年期のガンジーはタバコ代欲しさに召使の金を盗むなどの「非行」に走り、マンデラはボクシングと女性に目の無い不良であった事や、学校も親のコネと七光りを頼りにやっとこさっとこ進学した事等が挙げられるが、最大の共通点は運動の中心が自分ではなく、常に「目的」であり「民衆」であり続けた事が他の指導者と決定的に異なる事であろう。

一方、権力と地位を巧みに使って戦後の世界を変えた指導者にはチャーチル、サッチャー、リーガンなどが挙げられるが、この三人も学業に優れず「一期一会(コネ)」に助けられて社会に出てから実力を発揮した人物である。

今の東北アジアの状況はこれ等の偉大な指導者を必要としているが、この五人が筆記試験原理主義国の日本で生まれていたら? と思うと複雑な気持ちになる。

2013年12月17日
北村隆司