悲しきボスニアの人々 --- 長谷川 良

アゴラ

ボスニア・ヘルツェゴビナで失業と貧困に抗議した国民の反政府デモが暴動化した。同国内務省が2月8日発表したところによると、33都市でデモが行われ、219人が負傷した。その半分以上は警備に当たった警察官だった。

騒動の発端は、同国北東部のツズラ市で5日、5か所の国営企業が民営化後、倒産し、約1万人の労働者が職を失ったことから、自治体政府への不満が高まったことだ。


悪化する経済と失業問題に抗議するデモが6日、警察隊と衝突し、130人以上が負傷をした。警察当局によると、2000人がデモに参加。30人のデモ参加者と100人以上の警察官が病院に運ばれ、8人のデモ参加者が逮捕された(同市の人口は約50万人、失業者総数は10万人だ。就業年齢の国民2人に1人が失業状況)。

現地からの報道によると、同市では約100人の覆面したデモ参加者が市行政機関建物やその周辺に火をつけた。デモ参加者の中には多数のフーリガンの姿が目撃されたという情報も流れた。

反政府デモは7日、首都サラエボにも飛び火し、大統領府建物に火をつけ、国立文献保存所が放火され、壊滅するという事態が生じた。ボスニアの公営通信社FENAによると、サラエボの大統領府建物は2階まで火がついたという。

ボスニア・ヘルツェゴビナのバレンティン・インツコ上級代表は7日夜、「状況は沈静化してきた。まだ全ての火は鎮火されていない。国立文献保存所は過去、3回の戦争でも無事だったが、今回の騒動で壊滅状況となった。その被害は大きい」という。

ゼニツァ市(サラエボ北部70キロ)では3000人のデモ隊と警備隊が衝突、5人の警察官が怪我した。デモはボスニア戦争(1992年ー95年)以来、最大規模だ。デモ隊は腐敗した指導者への怒りを爆発させた。

デモはプリイェドル市(Prijedor)、 モスタル市(Mostar)、バ二ャ・ルカ市( Banja Luka)そしてビハチ市(Bihac)にも拡大した。

ボスニアの失業率は44%だ。380万人のうち、5人に1人は貧困だ。平均給料は420ユーロ。インツコ上級代表は「大多数の国民は貧しく、ほんのわずかな国民だけが豊かな生活をしている」と貧富の格差を指摘している。そして大多数の国民の不満、怒りが政府当局に向けられているわけだ。

大統領評議会のジェリコ・コムシッチ議長は「騒動は我々の責任だ、デモが生じた直後、デモ参加者と話し合うべきだった。軍を動員してデモ隊を鎮圧する考えはない」と強調。ボスニアのラドンチッチ内相(Radoncic)は「地方政府の対策が非能率的だ。騒動の主因は腐敗対策の不十分にある」と述べている。

以上、オーストリア通信(APA)が8日、配信した記事を参考に紹介した。

ボスニアは1995年12月、デートン和平協定後、イスラム系及びクロアチア系住民が中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア系住民が中心の「スルプスカ共和国」とに分裂し、各国がそれぞれの独自の大統領、政府を有する国体となった。

和平協定が締結されて今年で19年目を迎えたが、ボスニアは主権国家としての機能を発揮できずにいる一方、地方自治体の腐敗が多発してきた。ツズラ市のデモに参加した若者は「政府はわれわれの未来を奪った」と叫んでいる。

ボスニア紛争は死者20万人、難民、避難民、約200万人を出した戦後最大の欧州の悲劇だった。イスラム系、クロアチア系、セルビア系の戦いは終わったが、現状は民族間の和解からは程遠く、「冷たい和平」(ウォルフガング・ぺトリッチュ元ボスニア和平履行会議上級代表)の下で、民族間の分割が静かに進行してきた。

そのボスニアで今、停滞する国民経済、失業者の増加といった厳しい社会環境下にあって、多くの国民が未来への見通しや希望を失ってきた。

一方、ボスニアが主権国家として苦戦している間にクロアチアは昨年7月、EUに加盟した。セルビアはEU加盟交渉を始めた。ボスニア国民には「われわれは置き去りにされた」といった焦りがあっても不思議ではない。その焦りと怒りが今回、ボスニア政府関係者への不満として暴発したのかもしれない。

興味深い点は、ヘルツェゴビナのモスタル市、ムスリム系住民の多いサラエボ市、セルビア系住民多い「スルプスカ共和国」の首度バ二ャ・ルカ市で7日、デモが行われたことだ。民族紛争で争ってきた3民族が社会的閉塞感の克服を求めて立ち上がってきたわけだ。ボスニアの3民族が「冷たい和平」から民族間の壁を克服した「暖かい和平」を実現できるまで、国際社会は支援を惜しんではならない。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年2月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。