佐村河内氏の『才能』と、論文コピペの『合理性』を認めよう!

倉本 圭造

佐村河内氏の事件が冷めやらないうちに、STAP細胞の小保方氏の論文に関する杜撰さが次々と明るみに出てきたりする中で、こういう問題の再発防止に日本社会が取り組むにはどうしたらいいのか?について考えてみたいと思います。

大前提として、日本に生きる個人主義的人間の悲願であるところの、ある種の「信賞必罰」的な「甘えの論理を断ち切るクリアーな処断」を作用させていくことは必要だとは思うのですが、それを実際に日本社会で実行して、「抵抗勢力」さんに悩まされずに隅々まで普及させるには、ヘンな言い方ですが、

佐村河内氏の『才能』と、論文コピペの『合理性』について、もっと大上段にみんなで認めてやれる文化

が必要じゃないかと私は思っています。


というのも、実は佐村河内氏は結構才能あると思うんですよ。

いや作曲(してるフリ)中に暗い部屋でのたうち回って見せるパフォーマンスとか、自分自身の売り込み能力とか、そういう「山師」的な才能のことではなくて、結構「音楽的な才能」とも呼べる何かがあると思うんですよね。

音楽をかなり真剣に愛好し、趣味としてでも作曲とかやったことある人ならご理解いただけると思うのですが、あの「ミッチリ書き込まれた佐村河内氏の作曲指示書」みたいなのがないと、「耳の聞こえない苦難に負けず」的なストーリーを抜きにしても、凄い人数の観客に

五木寛之氏(作家)
ヒロシマは、過去の歴史ではない。
二度と過ちをくり返さないと誓った私たちは、いま現在、ふたたびの悲劇をくり返している。
佐村河内守さんの交響曲第一番《HIROSHIMA》は、戦後の最高の鎮魂曲であり、
未来への予感をはらんだ交響曲である。
これは日本の音楽界が世界に発信する魂の交響曲なのだ。

・・・みたいなことを「思わせられるだけの曲」にはならないんですよね。

これは、ゴーストライターの新垣さんに才能が無いとかじゃなくて、人間のタイプの問題なんですよ。

新垣氏のような職人的になんでもできる有能なプロフェッショナルには、できない「大仰さ」っていうのがありますしね。

佐 「いやいや、ここで一回静かにしておいて観客を引きつけつつ、弦のシンコペーションを連続させて盛り上げてって最後に金管ドグァアアアアアアン!ですよ!」
新 「・・・それってちょっと下品じゃないですかね?」
佐 「いや、そこであえてやるんです!そうじゃないと世界の深淵の受難を超えた真の救済の音楽にはならないんですよ!!!」

みたいに佐村河内氏”のような才能”がグイグイ引っ張っていかないと、なかなかああはならないです。

で、そういうことまでちゃんとみんなわかってる雰囲気が世の中にあれば、「原案・佐村河内守 作曲・新垣隆」あるいは、多少無理があるけど両者内で合意できるんであれば「作曲・佐村河内守 オケ編曲・新垣隆」みたいなクレジットで売り出すのに何の問題もなかったと思うんですよね。

ロックミュージシャンだったら、「原案」ぐらいのリフしか作ってなくても堂々と「作曲」にクレジットしてると思いますし。

そういう「フェアなクレジット文化とそれをみんなが理解する成熟した文化」があれば、「無理やりな捏造」をする必要もなくなるんですよ。

で、なんか並べると凄く問題あるかもしれないですが、小保方氏の論文の色んな杜撰さについてもね。(研究内容の核心についてはまだわからないことも多いですしここでは触れません)

文系の論文だと、やっぱイントロダクションのスコープとかもっと言えば「文体そのもの」が価値源泉ってとこありますから、そりゃ適当にコピペしてたらダメですよ。

でも理系の、それでも分野によるでしょうけど少なくともその範囲のイシューが既に専門家内では明確に共有されてる分野では、どうせ読む方だって「概要」の次はイントロダクションなんかすっ飛ばして本論の方を見るもんですよね。

だからイントロダクションの部分は、別にもうコピペでもいいじゃん!っていう「文化の共有」は大事だと思うんですよ。(でも著作権問題とか、脚注についてのフェアさとかは気をつけようね!・・・ぐらいのバランスで)

で、小保方さんの論文(特に博士論文について)は、「そういう問題」とは別レベルであまりに脚注の書き方とか、引用に対する考え方が杜撰すぎたらしいので、それを擁護してるわけじゃないんですよ。

形式にすぎないことでもダメなもんはダメだし、だいたい博士号出すんだったらちゃんと論文を教授は読めよ!っていう類の批判は大事です。ちゃんとそういう基本を踏んで研究しておられる方々が怒りを感じるのも非常にもっともであります。

でもじゃあその解決策として、色んな「チェックシステム」を山ほど導入してありとあらゆることを厳密化していけばこういう問題が起きなくなるか・・・・っていうと、そうじゃないんですよね。

もしそういうことだけをやっていけば、「イントロダクションの英文は完璧だけど研究内容はほんとカスだよね」っていうものがのさばってしまう可能性だってあるじゃないですか。

1英文も論文の体裁も完璧で、しかも研究内容が超スゴイ!

が一番良くて、次が

2英文や論文の体裁はちょっとビミョウだが研究内容が超スゴイ!

が二番目、

3英文や論文の体裁は完璧なんだけど内容はほんと何の見どころもない

っていうのは下の下なんだ・・・・っていう

「文化」

が形成されていないと、無理押しに「チェックシステム」だけを無理やり導入したって

「禁酒法を制定したのはいいがヤミ酒ビジネスが流行って反社会的勢力が大きくなっただけに終わった」

みたいなことになっちゃうんですよね。(そうならないための集団的人間の本能として結局”抵抗勢力さんを押しきれなくなる”んですよ)

常に「何が実質的な価値なのか」について、みんなが理解している「濃密なピアレビューの網の目」が明確にあってこそ、「透明性を担保するシステム」は価値があるし、もっと言えば「抵抗勢力を押し切って実現」することも可能になるんだってことなんですよ。

アメリカはこと「学問世界内」におけるそういう「ピアレビューの濃密な網」は凄くできてますけど、日本の場合は学問世界の内輪でやってる分には良かったんですが、そこに横ヤリ的に「センセーショナルで面白いのが異様に評価されるマスコミ文化」みたいなのが邪魔しがちなので、「単純にアメリカのシステムを移植」したってうまくいかないんですよね。

この前私が書いた「茂木健一郎氏の予備校ぶっ壊せ発言についての記事」のように、日本においてそういう「アメリカレベルの知的な仕切り」がちゃんと作用するように持っていくには、「それ専門の算段」が沢山必要になってくるんですよ。

それについてまとめたのが、拙著『日本がアメリカに勝つ方法』「21世紀の薩長同盟を結べ」なんで、ぜひ手にとっていただきたく思います。

「アメリカみたいになんでできないんだ!」っていう気持ちを持っておられる方が、ちゃんとその願いを果たせるための「わからずやの日本社会」への説得ツールみたいになっています。(概要としての序文がこちらで読めます)

同様のテーマで、「日本社会と科学というもの」の関係について昔書いたブログ記事もおすすめです。→「実写版宇宙戦艦ヤマトが、なぜチャチに感じてしまうのか?から考える「科学と日本」。」

倉本圭造 経済思想家・経営コンサルタント
http://keizokuramoto.blogspot.jp/

追伸ですが、この記事は今朝の日経ビジネスオンラインにおける慎泰俊さんの記事に触発されて書きました。良い記事だと思ったのでぜひどうぞ。