安倍首相は好戦的か?

松本 徹三

「秘密保護法」から「集団自衛権」更には「一定範囲内での武器輸出の許容」に至るまで、安倍首相が現在力を入れている安全保障に関連する政策の多くに懸念を持つ人たちは日本国内にも多い。しかし、安倍さんが首相になれば当然このような政策を遂行するであろう事は先の衆院選の前から分かっていた事なのだから、今更「反対」と叫んでみても意味のない事だ。自民党内部の慎重論者や連立政権を担う公明党、及び野党の各党は、「現実的な修正案」を出すのがせいぜいだろうし、その方向で努力すべきだ。


しかし、この事をもって安倍首相を「極右」と呼んだり「好戦的」と考えたりするのは筋違いだと私は思っている。如何に平和を求める事が日本の国是であっても、「中華の夢の実現」を謳い、現実に海洋での膨張主義を支える海軍力の強化を推進し、習近平主席が米国との首脳会談で「太平洋は米中で分けても問題ない程広い」とまで公言するに至っては、隣国である日本が無策でいるわけにはいかない。このような中国の動きを牽制する為に必要な諸施策を取る事は、ある程度の経済力を持った独立国なら当然の事で、その事自体が「右翼的」だったり「好戦的」だったりするわけはない。

そもそも、「戦争か平和か」という問いかけは馬鹿げている。余程の異常性格者でない限りは、誰でも平和の方が良いに決まっているからだ。この問いかけは「戦争か隷属か」とか「戦争か貧困か」とかいう場合にのみ意味を持つ。過去に日本国内でも多くの支持者のあった「非同盟中立主義」は、突き詰めれば「場合によれば中ソの同盟国または衛星国になっても良い(その方が米国が利己的に主導する資本主義陣営に留まるより良い)」という考えに支えられていた訳だが、今はそのような考えを持つ人は稀だろう。そうなると、残念ながら、今後の選択肢は「自らの意志に反する隷属」か、或いは「戦争」かの「二者択一」になってしまうケースが多いのではあるまいか?

「抑止力の為の軍備を持つ事」や、「有事に際して効率的に動けるような法制度を整備する事」、「他国との双務的な同盟関係を充実させる事」などは、「下手をすると敵対関係になる可能性のある隣国との友好促進の為に、外交努力を徹底的に行う事」とは、全く矛盾しない。それどころか「共に不可欠」と言ってさえよいと私は思っている。現実に、「戦争も隷属も避ける」為には、この双方を丁寧にやっていくしかないと思う。

外交の要諦はどんな時でも相手を不必要に刺激しない事だ。更に言うなら、どんな国のどんな政権でも、ある程度は国民感情に迎合する必要がある事を理解し、そのような相手の立場に配慮する事すらもが必要だ(相手が興奮しやすい状況にある時には、ぬらりくらりしているほうが良い)。要するに、国民の利益を最終的に守る為には、あらゆる知恵を絞り、あらゆる忍耐を厭わず、全力を挙げて努力するのが、どの国においても、プロの政治家たるものの責務だと思う。

人間(特に男性)は生まれながらにして「好戦的な性格(闘争心)」を持っている。この性格はしばしば「征服欲」と合体し、この為に古来「戦争」というものがしばしば行われた。それは勇ましいもので、その中で行われた「自己犠牲」や「英雄的な行為」は、しばしば人々を陶酔させた。しかし、第一次世界大戦で、多くの人たちが「近代兵器がもたらす想像を絶する悲惨さ」を体験し、その後は「何として戦争だけは避けたい」という意欲が世界的に盛り上がった。一般民衆のレベルでは、万人がそれぞれに興奮する「スポーツ」により、現在は人々の「好戦的な性格(闘争心)」は良い方向へと導かれているとも言える(これは奇しくも古代ギリシャにおいてオリンピアードが果たした役割に似ている)。

しかし、現代の日本を見ると、既に戦争の悲惨さを体験した人たちは少なくなり、戦争というものを観念的にしか捉えられない人たちが増えている。かつて日本を無意味で破滅的な戦争へと駆り立てた思想哲学や社会意識さえをも、再び公然と美化したいかのような人たちもいる。子供たちにとっては、戦争というものはドラマやアニメ、ゲームを通してしか理解出来ないから、放置すれば「戦争の本当の悲惨さ」などというものは、恐らく最後まで理解されないかもしれない。従って、映像等を駆使した歴史教育によって、未来を担う子供たちに戦争の本当の悲惨さや無意味さを疑似体験させ、戦争やそれに通じる国際政治というものについて深く考えさせる事が、これからはどうしても必要だと思う。

ご承知のように、私は安全保障問題については極めて現実的な考えを持っており、それ故に、それに関係する安倍首相の政策を基本的に支持しているが、靖国参拝問題に象徴されるような「過去の正当化路線」は強く批判している。日本は誤った「政治経済思想」や国粋的な「美意識」に強く影響されて、他国から見れば「侵略」になる「拡大路線」をとり、それが行き着いたところが、多くの人たちをとんでもない程に悲惨な状況に追い込んだ先の戦争だった。このような過去の重大な過ちを、私は日本人として簡単に許すわけにはいかない。まして況や、その根本にあった「哲学思想」や「美意識」を、遡って正当化したり美化したりしようとしている人たちには絶対にくみしたくない。

国民全体を集団自殺の危機から救った「無条件降伏」により、日本人は、「理不尽なところの多い東京裁判」も受け入れざるを得なかったし、米人神父が反対してくれなかったら、靖国神社は焼き払われてドッグレース場になっていただろう。にもかかわらず、今になって「東京裁判は無効だ」と言い立てたり、「靖国神社に参拝するのが戦死していった兵士たちに対する日本人の責務だ」と言ってみたりするのは、卑怯未練としか言いようがない。

「戦前戦後の行動を誤りだったと考える歴史認識」に対して「自虐史観」というレッテルを貼って攻撃するのも、公正とは言えない。そもそも「自らを虐げて」嬉しい人間等はどこにもいない。過去の誤りを「誤りだった」と言うのは、単純にそう思うからであり、また、それを繰り返したくないと思うからだ。このような率直な気持までがとやかく言われるのは、異常としか言いようがない。

第一、そんな事をして見ても、過去は何も変わらない。現在を生きる国民がそれによって得るものも何もない。一握りの人たちの自己満足(それを彼等は「誇りを取り戻す事」だと言うのだろうが、私は「誇り」というものはそんなに軽忽なものではないと思っている)の為に、世界中を敵にまわす結果を招き、いくら「不戦の誓い」等という事を言っても、「元々好戦的な人間が口先だけで取り繕っている」としか思って貰えず、真っ当な「憲法改正」までもが疑惑の目で見られる事態を招く事など、どう考えても意味をなさない。

中国は恐らくは自らの政治基盤の維持の為に、韓国は恐らくはその複雑な心理構造と国内情勢の為に、何時迄も過去の事をほじくりかえして日本に因縁を付けてくる。それに対し、我々は「もういい加減に過去の事を議論するのはやめて、現在と未来の問題を議論しよう」と言いたいところだ。そういう立場にいる我々自身が、何時迄も過去の事を懐かしんだり、遡って正当化して溜飲を下げようとしたりしていて、一体どうするのか?