連載 GPIF改革 2 ガバナンスの本質

小幡 績

GPIFを改革するには、出資者である国民とそれを統括する政治が変わらなければならないというのが前回の話であった。

家を建てるときも、施主がセンスが悪ければ、どんなに優れた建築家であってもいい家は建たない。最悪なのは、建築について何も分かっていないのにネットでかじった知識で無理なコストカットを要求したり、有名建築家や有名建築の真似事をしようとしたりすることだ。一番悪いのは、何も分かっていないのに、すべて分かっていると自分で思い込んでいる場合だ。

何度も自宅を建替えた経験のある施主でも、せいぜい数回だ。建築家は何十、何百という経験をしてきている。施主は健全な素人として、職人である建築家に対峙するのが正しい役割分担だ。
しかし、どんなに優れた建築家よりも施主が良く知っていることがある。それは、自分の目的だ。どのような家に住みたいというより、どのような暮らしがしたいのか。その中で、自宅がどう位置づけられるのか。それを建築家が形にしてくれる。優れた建築家は、これまでの経験から、施主が自宅に何を望んでいるか、施主自身も形としては現れてこないが、潜在的に望んでいるものを引き出し、それを言葉や形にしていくことができる。しかし、建築家には、施主の本当に求めているものを作ることはできない。それは施主自身にしか、作り出せないものなのだ。

すべての資産運用についても同様で、どのように資金を将来的に使って行きたいのか。それが決まって初めて資産運用の考え方、手法や手段が決まっていく。

GPIFの場合は、国民の年金資産を運用するという目的ははっきりしており、将来にわたる支給計画も一応決まっている。問題は、今後、現在の年金制度が現行制度のまま維持可能かどうか議論が分かれていることであるが、それは後ほど議論することにして、ここで重要なのは、長期運用であり、安定した資産運用が必要であるが、長期に安定していれば良く、短期の変動は本質的には関係ないということだ。

こうなると、自宅建築の施主の場合、施主の本当に欲しい家は、施主自身も形としては認識できていないが、それとは異なり、年金資金の出資者である国民の目的は、ともかく長期に安定していれば良く、その中でできる限り殖やして欲しいということになるだろう。

じゃあ簡単だ、ということになるかというと、そうでもない。難しいのは、例えば、長期に安定していれば良く、というところだ。リーマンショックで世界中の株価が大暴落し、日本の株価も大暴落した。日本の不動産を保有するJ-REITはとことん暴落した。このとき、年金資金を運用している機関が(GPIFということでなく、企業年金を含めて一般論としての年金運用機関が)、日本株、J-REITを買い捲ったとしたらどうだろう。さらに世界中の株式、とりわけ大きく暴落した米国株を買い捲ったらどうだろう。その株価が、買い捲った後も、下がり続けているのを毎日のニュースで知らされ、年金資産の時価が毎日下がっているのを新聞で知ったら、どう反応するだろうか。

長期には戻るから心配ないと説明されても、冷静ではいられないかもしれない。その場合、国民が感情的になり、年金を返せと叫ぶかもしれない。正義感に溢れた政治家は、その意向を受けて、責任追及を行い、年金運用機関や官僚を責め立てるかもしれない。そして、株は危険だ。年金で株は運用してはいけない、というムードが高まり、二度と株で年金資金を運用してはいけないという法律ができるかもしれない。

しかし、実際のところは、そのまま、株式やREITに投資し続けた方が良かったのだ。さらに下がるようなら、さらに買い続ければよかったのだ。その方が、今となってみれば、資産が殖えていたはずだ。実際にGPIFがどういう投資行動をとったかはここでは議論しないが、理屈で言えば、短期の変動には左右されず、常に長期で考えることが必要で、短期の動向に流されてはいけないということだ。

しかし、さらに難しいのは、それでもケースバイケースだと言うことだ。1989年に日本株を買っていれば、それは永遠に取り返せないだろう。2000年のITバブル期に、IT企業を買っていれば、それも難しい、あるいはもう紙くずになった株もあっただろう。それでも、20世紀の歴史で見れば、平均的には、大きな暴落が起きたときこそ、冷静に買っていった方が良かったことになる。だが、問題は、歴史的事実ではない。その時点での感情だ。

この場合、運用に関しては素人の国民と政治家とプロフェッショナルの年金運用機関のどちらが、最終的な意思決定権を持つべきか。

もちろん、それは国民と政治家だ。

これは意外に思われるかもしれないが、それが世の中の道理だ。最後、もめたら、施主に従うしかない。どんなに醜い家、どんなに住みにくい家になるとしても、最終的には施主の意向に従うしかない。運用も同じである。やや複雑なのは、公的年金の場合、将来生まれてくる国民も出資者に当たる可能性があることだが、ここではそれは省略して考えよう。

出資者が、最終決定をする。それが運用の場合のガバナンスだ。株式会社ならば、株主が最終決定をする。制度が想定する意思決定者が最終決定をしなければ、ガバナンス構造は崩れてしまう。出資者である国民しか、国民の真の意向は最終的にはわからないからだ。

土壇場で、危機のときに、人間の本性は現れる。建築もそうかもしれないが、本当の危機に陥ったときに国民の底力は反映される。そのときに妥当な意思決定ができないようであれば、その国では何をやってもだめなのだ。年金運用に関してそれができないのであれば、年金も運用も止めてしまうしかない。したがって、公的年金廃止という案は常に選択肢としてありうるのだ。

しかし、年金制度もあった方がいいし、年金運用もした方がいい。良い年金制度と良い年金運用は、何もしないより遥かにましな結果をもたらすからだ。

では、そのために必要なのは、優れた国民であることは分かったが、優れた国民は、運用の危機のときにどのような行動をとるのか。

それは、運用を任せた機関、人々の話を良く聞いて、冷静に理解することだ。そこで大枠の判断は、冷静であればできるはずだ。

しかし、優れた国民であっても、妥当な判断ができない可能性がある。それは冷静さを失い、感情的になることだ。そして、そうならないようにガバナンスは存在するのである。

ガバナンスとは何か。しっかり目利きをして優れた人材を選び、その後は、その人材にほとんどすべてのことを任せるということだ。そして、その選択が誤りであることが後で判明した場合、その人材が変質してしまった場合、その場合には、適切に人材を入れ替えることだ。それがガバナンスである。

そして、選んだ人材が、変質しないように、変質しないインセンティブを備えた組織をつくり、そして変質していないか監督すること、それがガバナンスである。

だから、ガバナンスとは、任せた運用者、運用機関の投資意思決定に介入することではない。日々の投資行動に介入するべきでないし、いつ株式を買うべきか指図も、暗にプレッシャーもかけてはいけない。そして、基本的な資金配分についても介入してはいけないのだ。運用で言うところのリスク許容度について、自分たちの本当の意向を自己で明示的に理解し、それを伝えることであり、それ以上のことは、一切介入するべきではないのだ。任せると言うことは、選んだ後は信じるということだ。

そして、このような信頼関係を担保するのがガバナンスなのだ。まずは、徹底的に調べ上げ、ほとんどのエネルギーを人材選びに使うべきだ。その上で、その人材が変質しないような組織を作り上げる。国民と同じ意識で年金を運用し、それに全力を挙げると同時に、国民に文句を言われないように、後で説明しやすいやり方で運用しておく、と思わずに、とにかく、長期に安定しつつ、最高のリターンを平均的に達成できるようにすべての手段を投入する。国民から疑問が出たときには、徹底的に説明するという意思を持ち続ける。そのように運用者、運用機関が行動するようなインセンティブをもった組織を作るのだ。そういう組織を作れば、実際には、疑問をぶつけて徹底的に説明させるということは、ほとんど起きない。しかし、このガバナンスには、ガバナンスをかける国民の側、政治の側に多大で、地味で、誠実なエネルギーを必要とするのだ。

これは非常に難しい。現実には行なわれないことが多い。一方、これさえ実現してしまえば、後は運用に関しては、それほど心配は要らない。運用のスーパースターを求められても困るが、妥当なリターン、妥当に資産が平均的に殖えるということは、難しくない。

ガバナンスの本質とは、ガバナンスのメカニズムにあるのでも、テクニックにあるのでもなく、ガバナンスをかける側の度量の大きさ、意思、エネルギー投入にあるのだ。