著作権について思うこと。その1 --- 中村 伊知哉

アゴラ

東洋大学で開かれた情報通信政策フォーラムに呼ばれ、著作権政策について話しました。ぼくは知財本部の議論とりまとめ役として、どの政策を重視して担当官庁に解決させるかを差配します。だから個々の著作権問題の白黒に踏み込むことを避けています。このため著作権問題のスタンスがわかりにくいと指摘されることもあります。このフォーラムでは普段と違ってできるだけ踏み込んだので、4回に分けてメモしておきます。


今でこそ政府8省庁が知財本部の席につきますが、以前は重視されてはいませんでした。ぼくが郵政省の官房にいた十数年前、著作権法の改正案が文化庁から回ってきても、放送担当がテレビ局に意見を聞いて、文句が出なければスルー、ぐらいの扱いでした。

それがこの10年で、ネットやPC、ケータイといったデジタルの進展とともにコンテンツの重要性が高まり、著作権にも注目が集まるようになりました。著作権が産業の源泉になることが認識される一方、コピーと流通を管理することで権利を保護するアナログの仕組みが、コピーと流通のためのデジタル技術の普及によって問い直されてきたわけです。

しかし、10年たっても問題は解決しません。ますます複雑に入り組んでいきます。その最大の原因が、著作権の問題を「法制度」の枠に押しこめ、「行政」で解決しようとする基本姿勢にあるとぼくは考えます。それによって「時間コスト」がかかりすぎるのが問題だと。

ぼくは著作権法の専門家ではなく、政策屋です。著作権には関心がありますが、権利に関心があるのであって法律に関心はありません。著作権はコンテンツの提供と利用、生産と消費のインタフェースです。その当事者は対立します。議論して調整するなんてムリってもんです。本来、ビジネスや契約で決めるべきもの。そもそも制度に話をもっていくのが間違ってる、と思うことが多い。

ところが、それを覆す事態が起きてしまいました。TPPです。アメリカは生産と消費のバランスを生産側に持って行こうとしています。アメリカの政策はビジネス主導ですし、コンテンツが輸出超過ですから、当然の動きです。知財はマクロ政策の中の一項目だし、外圧での制度論なので受け止めざるを得ません。

ただ、保護期間の延長問題はぼくはさほど深刻に受け止めてはいません。日本にとって損であり、国益に合致するとは思えませんが、逆に、被害もさほど深刻ではないと思います。8年前にこの問題を議論するプラットフォーム「ThinkC」を立ち上げる際、ぼくは福井健策さんや津田大介さんらと世話人を務めたのですが、ぼくの立場は、「こんな話よりもっと大事なことがあるだろう」というものでした。

だいいち保護期間の問題ってデジタルとは関係がない。デジタルの進展で取り組むべきもの、たとえば二次利用とか、クリエイターへの対価還元とか、デジタル・アーカイブとか、電子書籍とか、電子教科書とか、目の前に切迫した課題があるのに、著作権法の学者や福井さんや津田さんら大事なかたがたの時間を何年も使ってロスしないでもらいたい。貴重な頭脳はもっと大事な問題に活用してもらいたい。

これに対し、「非親告罪化」は深刻だと考えます。政府はクールジャパンに力を入れていますが、日本の表現パワーはプロのクリエイター以上に、国民みんなの創造力に立脚しています。それを殺すには、国民みんなの二次創作力を削ぐことです。

その国内生態系を崩して導入するなら、アメリカが決して他国に要求しようとしない「フェアユース」をコレでもかというレベルまで同時に導入するバランス感が働くことになるでしょう。ぼくは日本のユーザは非親告罪化を座して受け入れてオシマイにはならないと見ます。

TPPは多国間交渉ですし、最後は政治決断。帰結はわかりません。でも、知財のプライオリティは確保したい。農業のために知財を売るような事態だけは未来のために避けたい。にしては知財側の声が小さいんです。

同時に、話はこれっきりではない、ということも胸に留めておきたい。昨年3月、アメリカのマリア・バランテ著作権局長は保護期間が長すぎると言及しましたし、MITスローンスクールのブリニョルフソン教授も著書でその旨を表明しました。米国内の有力者から、制度のアンバランスさが指摘されているわけです。別方向の議論が生じてくる可能性もあるでしょう。

(つづく)


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2014年6月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。