人工知能に勝てない「昭和」のままの義務教育 --- 佐藤 正幸

アゴラ

日本には昭和に戻りたいと思ったら昭和に戻れる場所がある。池袋のナムコナンジャタウンではない。もっと身近なところに存在している。

学校だ。

小学校でも中学校でもいい。日本の義務教育が行われる場所は昭和の姿をそのままとどめている。懐かしいあの鉄パイプに木製の机。著名な海外の音楽家の肖像画が並ぶ音楽室。僕らの両親の時代、ヘタをしたら祖父祖母の時代から一行に変わっていないかもしれない。


懐かしいなぁという昭和の余韻に浸る分にはよい。

しかし、この余韻は学校という場所がそもそも昭和という前時代から変わっていないことを意味する。

児童を前に1人の先生が黒板に板書して授業を進めていく。体育では皆が同じ科目をすることで協調性を養う。

全ては昭和というより富国強兵、殖産興業といった明治時代の人材育成システムから変わっていない。義務教育の基本コンセプトはソルジャーを養成することなのだ。従来の教育のテーマは「管理すること」であり、管理し易い人間を効率的に量産することであると言い換えても言いかも知れない。義務教育の源流は英国の植民地における人材育成にあるとされその源流を考えても「管理すること」がテーマだということが納得いただけるだろう。

日本人は横並び意識が顕著とか、金太郎飴が量産されているという指摘は多いが大きな原因はこの前時代を脱却できていない義務教育にあるだろう。

この義務教育を変えていかない限り、指示待ち族が大量に量産されていく。

現在では人工知能は自身で学びを繰り返すことができるようになっており、東大卒程度の知能の開発がすでに成功した実用段階らしい。とすると人間の仕事が人工知能であるコンピューターに獲られる時代も近いことを意味する。何しろコンピューターは就業時間内にサボらないし、電源を入れている限り24時間働き続ける。しかもその知能たるや東大卒レベルときている。もはや人間が事務作業を行う必要はない。

こうした時代背景を考えれば、人間の役割を考えていく必要がある。

明らかに人間にはコンピューターには創り出すことができない創造性が求められている。いまや創造主は創造物に能力を凌駕されつつある。従って、創造主はその創造性によって自らの創造主としての存立基盤を確立するしかないということだ。

こうした創造性を確立する上で非常に興味深い教育がサドベリースクールだ。

このサドベリースクールは米国で始まった仕組みだが、このスクールには基本的に生徒を管理するという発想がない。そもそもカリキュラムもない。児童は何をやってもいい、何でもありな学校なのだ。

生徒それぞれが問題意識を持つことでそこから5教科のような科目が派生していく。原子力をテーマにした児童もいたようで、その児童は原子力を調べる上でぶつかる様々な数式や読めない漢字をネットを駆使して次々と解決していくのだそうだ。原子力を幹にしてそれに必要な知識が枝葉として伸びていくという構図だ。

こうした問題意識に根付いて学問を進めていく芽が少しづつ出てきていることで5教科をツールとして使い新しいモノを創造していく、解決して行くチカラが育っていることに幾ばくかの安心も感じた。しかし、サドベリースクールはまだまだメジャーな取り組みとは言えずこれからどのように普及してゆくのか行方が注目される。

創造主が創造主でいられるのか。人類は神との対峙以前に自分たちが創造してきたものに凌駕されるか否かという時代を生きている。

佐藤 正幸
World Review通信アフリカ情報局 局長
アフリカ料理研究家、元内閣府大臣政務官秘書、衆議院議員秘書
Twitter@Tetsutochi
ブログ静かな夜にワインとビスマルクを