欧州社会では少数派の同性愛者の権利を「尊重」すべきだという声が増えてきた。ドイツのプロサッカー界でナショナルチームに選出されたことがある選手が突然、「自分は同性愛者だ」と告白した時、日頃は厳しい批判の多いドイツのメディアが「リスペクト」と第一面に書いて報じていた。当方は「リスペクト」はこの場合、適当な表現だろうか? と首を傾げざるを得なかったが、他のメディアやサッカー選手たちが異口同音に「リスペクト」と発しているのを聞くと、その表現は間違っていないのかもしれない。
しかし、同性愛者ではない多数派の国民は少数派の同性愛者を本当に「リスペクト」しているのか。同性愛者を批判すれば、「心の狭い人間だ」とか「頑固な人間だ」と受け取られる、と懸念する人が少なくないことも事実だろう。だから、「リスペクト」は都合のいい表現かもしれない。厳密にいえば、「リスペクト」には、自分の生き方に批判を受けないために、他者の生き方に目をつぶるといった意味合いが含まれているのではないか。
もちろん、「同性愛は間違いだ」とはっきりと指摘する知識人や聖職者はいるが、大抵の場合、彼らは「少数派の人権蹂躙だ」といった批判にぶつかる。だから、同性愛は間違いだと考えても口を閉ざす人が増えた。ロシアのプーチン大統領など限られた政治家だけがメディアの批判を恐れずに発言する。
同性愛者を擁護する人々はリベラルな信条の持ち主が多いし、自分はリベラルだと自負する。そして、リベラルな人々は価値の相対主義者が多い。相対主義者は気がついていないかもしれないが、彼らは「真理は存在しない」という前提を受け入れている人々だ。もし、真理が存在するならば、それに合致するかどうかで価値は決まる。あれも、これも良し、とはいかない。相対主義の場合、真理は存在しないから、全ての生き方、思想は容認できる。相対主義者の世界には神、正義、公正などは存在しないからだ。
独週刊誌シュピーゲル最新号は、「欧州でいま“神なき宗教”“無神論者の宗教”が創設され、多くの信者たちが集っている」という。宗教と言えば、神、絶対的真理がその教えの中核を占めてきた。神、真理を標榜しない宗教など考えられなかったが、今は「神なき宗教」が人々の心を捉えだしているというのだ。前ローマ法王のべネディクト16世が厳しく批判してきたのが価値の相対主義だったことを思い出す。
当方はこのコラム欄で「欧州社会で広がる『不可知論』」(2010年2月2日)というテーマで記事を書いたことがある。不可知論とは、神の存在、霊界、死後の世界など形而上学的な問題について、人間は認識不可能であるという神学的、哲学的立場だ。それゆえに、神の存在を否定しないが、肯定もしないという立場を取る。「無神論者」であることをカムフラージュするために不可知論者を装うケースも少なくない。彼らにとって、不可知論は居心地がいい避難場所だ。「神を信じる者」からも「信じない人」からも、一定の尊敬を勝ち得ることが出来るからだ。
ただし、不可知論者には、神、真理を前提に苦悩している世界があるが、相対主義者にはそのような世界は見当たらない。「神の世界」も「神なき世界」も共存できる。そこには十字軍戦争や宗教戦争は考えられないから、絶対真理を掲げる宗教やその生き方よりひょっとしたら平和的かもしれない。彼らは「真理などなくても多くの人は幸福に生きている」と主張する。人は果たして本当に幸福になれるだろうか。
人間は程度の差こそあれ自身の言動に指針を与えるものをを模索している。それが神かもしれないし、聖人や義人の教えかもしれない。「絶対的な真理は存在しない」と考える相対主義者の行き着く先には、ニヒリズムという“死に到る病”が待っているのではないか。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年6月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。