人は物語なしで生きられない - 『〈わたし〉はどこにあるのか』

池田 信夫
マイケル・S. ガザニガ
紀伊國屋書店
★★★★★



一連の朝日新聞騒動の中で考えさせられたのは、木村社長の「偏狭なナショナリズムを鼓舞して韓国や中国への敵意をあおる彼らには屈しない」というEメールと、朝刊編集長の沢村亙氏の次のツイートだ。

彼らの脳内には「ナショナリズム」とか「排外主義」という巨悪があり、それと闘う朝日が迫害されるという物語ができているのだろう。そして彼らは「強制連行」という物語をつくって、それに合わせて事実を取捨選択してきた。それが破綻しても、今度は「女性の人権」という物語を創作する。

このようなメカニズムは、脳科学でよくわかっている。著者ガザニガの有名な分離脳の実験はそれを見事に示している。右目(左脳)でニワトリを見て左手(右脳)でシャベルを選ぶ矛盾した行動を、左脳が「ニワトリ小屋を掃除するにはシャベルが必要だ」と説明する。ここでは右脳と左脳という別の人格を左脳が無理やり統合する物語をつくるのだ。

人はこのような物語(解釈装置)なしで生きられない。右脳と左脳がバラバラに行動するような個体は、進化の過程で淘汰されてしまうからだ。脳はハードウェア的には1000億以上のニューロンが動く超並列コンピュータだが、人は<わたし>が行動すると感じる。四肢を統一的に動かさないと、外敵の攻撃から身を守れないからである。

社会も同じだ。集団を統合するための集団感情が(少なくとも部分的には)遺伝的にそなわっている。メンバーがバラバラに行動する集団は淘汰されるので、集団を統合する物語が必要なのだ。特に規範を共有することが重要なので、利己的な行動をきらって一つの価値を信じる道徳モジュールが脳にはそなわっている。

朝日新聞の絶対平和主義も、終戦直後に道徳モジュールでつくられた物語だ。武器で自衛することを「排外主義」としてきらう博愛主義は「日本でしか通用しない論理」だが、団塊の世代や専業主婦には売れる。その物語に合う記事だけを報道し、それを信じない記者は編集長や社長にはなれない。これは組織を統合する上では必要だが、彼らの敵視するナショナリズムと同じ構造だ。

本書もいうように、<わたし>という感覚も超並列に動くニューロンを統合する物語だが、多様な物語が共存する社会では、それを客観的事実や非人格的ルールでチェックする必要がある。その役割をになう報道機関が、もはや失われた物語に閉じこもるのは病理現象である。