約2400年前の哲学者ソクラテスが毒杯を煽り、死去した4月27日を「哲学の日」と呼ぶが、11月の第3木曜日はユネスコの「世界哲学の日」だ。だからとって、急にカントの本やヘーゲルの本を図書館から借りて読み出す人はそう多くはいないだろう。哲学は内省の学問であり、喧騒な日々を歩む現代人にとって次第に関心が薄くなりつつあるのかもしれない。内省している間に目の前の状況が急変してしまう今日、ゆっくりと哲学する時間はない、というのが現実かもしれない。
欧州最古総合大学のウィーン大学では哲学を学ぶ学生は少なくない。経済学は基本的には万物の公平な分配を考える学問であり、法学部は社会秩序を維持する上で最低レベルの道徳を考える学問といえるかもしれない。一方、哲学は、人間はどうして生まれ、人生の目的は、神は存在するか、といった宇宙的なテーマを考える学問だが、現実社会への貢献度は少ないかもしれない。
当方の家庭医が「患者の女学生が大学で比較文学を学んでいると聞いて、嬉しくなったよ。久しぶりにアカデミックな学問を好む若者に会った」と語っていたことを思い出す。
多くの若者は、特別な才能がない限り、就職に有利な学部、経済学部や法学部を専攻する者が多い。大学生の気質はどの国でも同じだろう。
奥さんが日本人のオーストリア人の哲学教授を知っている。彼は日本食が大好きで、奥さんが料理した昼食を食べるのが人生の主要目的ではないかと思えるほど、日本食を食べるのを好む。そのうえ、映画好き、ボクシング界にも精通している教授だ。教授が近代哲学を専攻しているのか、古代哲学の専門家は聞かずじまいだが、退職後もまだ週に2、3回講義しているという。
教授の生活を観察していると、上司との葛藤、昇進争いといった世界とは関係がないところで生きている人間の大らかさと、余裕が感じられる。哲学する人には、宇宙を観察している天文学者と同様、人生に対する余裕が感じられる(もちろん、全ての哲学者が人生に余裕を感じながら生きていると考えるのは間違っている)。
哲学は昔、神学とほぼ同じ分野を扱ってきたが、最近の哲学は近代科学の良き友となってきた。宇宙の起源、人間の構造、脳神経学といった学問の成果を無視しては、現代の哲学者は思考できない。神は現代哲学では思考の対象外に追い出されている。
さて、ここにきて哲学する若者を雇いたいと願う会社が増えてきているというのだ。哲学部卒業者の場合、その就職先は大学に残って学問を続けるか、教師となるか、研究所で勤務するぐらいだったが、哲学する若者を希望する一般企業がでてきた、というのは新しい社会現象だ。オーストリア日刊紙プレッセが報じていた。
その理由の一つは、「哲学する若者は給料の多少に余り関心がない一方、人間や宇宙の動向に関心を注ぐ若者だ。思考世界がでっかい」というのだ。哲学する若者が実際そうかは別問題として、哲学する若者が万物の配分に心を配る経済学部出身や法で人間を管理できると信じる法学部出身の若者より魅力的と受け取られだしてきたのかもしれない。
昔の哲学者は「人間は考える葦」(ブレーズ・パスカル)といい、「汝自身を知れ」(古代ギリシャの格言)と呼びかけている。哲学は結局は自身の再発見を求める学問といえる。哲学する若者が魅力的に受け取られ出したのは、それだけ自己喪失で悩む人が多くなってきたからかもしれない。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年11月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。