新年を迎える深夜、テレビは例年と同じく各地の神社、寺院にカメラを置いて、その美しく神々しい神門や仏閣、仏像、そして庭園を、参集した参詣客とともに描き出す。
山紫水明の中にたたずむ神社仏閣はいつ見ても心が洗われるような、清々しい気分を与える。日本の自然そのものが我々にやすらぎを与えてくれる。
日本人は無宗教というが、自然を尊ぶ気持ちは宗教そのものではないか。神は海にも山にも、大木にも大きな岩にも、どこにでも、細部に宿るという考え方、感じ方が日本人の心にあり、それが日本の宗教心なのである。
「古事記」に記載されている「八百万の神」は、それを表している。神道の本質もそこにあると思われる。
自然信仰を重視する神道は宗教の中ではレベルの低い土着信仰、未開人のアニミズムだという評価がある。
キリスト教やユダヤ教、イスラム教などの一神教の信者からは、そう見えるのかも知れない。だが、それは偏見だろう。人がやすらぎを覚える根源が宗教ではないだろうか。
これが多少の宗教論を読みつつ諸国を旅しながら還暦を過ぎた今、私の腑に落ちる実感だ。
日本には古くから仏教、儒教、そしてキリスト教と、多くの宗教が入り込んできた。正月は神社、結婚式はキリスト教会、葬式はお寺と、日本人はいろんな宗教にかかわり、そのどの信者でもない。無宗教、無節操だという批判が聞かれて久しく、反論できずに首をすくめる人々が多い。
しかし、我々の根本にあるのは山川草木に八百万の神を感ずる自然信仰であり、それを体現した神道ではないか、と思う。
神道は仏教と結びつき、神仏混淆した。死ねば成仏するとは神道と融合した後の和風仏教なのである。別に修行を積まなくても、そのまま成仏するとは、なんとも優しい考え方ではないか。
神道の大本に皇祖神があり、天皇がその要にある。泉幸男氏は著書「日本の本領(そこぢから)」(彩雲出版)の中で、天皇の本業は何かと自問し、こう答えている。
<天照大神を氏神として祀る儀式を主宰し、わが国の五穀豊穣のために祈ること。大自然に祈りをささげること>
わが意を得たり。私にとって、これほどピタリと示した解答はない。
「憲法に基づき、憲法に規定された国事行為を行うこと」というのは、天皇にとっては余技なのだ、と泉氏は断ずる。
まして陸海軍を統帥する統帥権(明治憲法)などは、天皇にとって余計な仕事、無い方は国民にとってもいいことだったのである。
昭和初年、軍部の意向のもと、神道が誤った方向に向かったのが日本の悲劇だった。だが、神道の本来の心も皇室の本業も、日本人にとっては、まことにしっくり来るものなのだ。
新年に当り改めて、八百万の神に祈りをささげつつ、自然の中を歩いてその息吹に触れ、古来の神社仏閣を訪れてみたいと思う。
編集部より:この記事は井本省吾氏のブログ「鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌」2015年1月1日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった井本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌をご覧ください。