どのような「言論の自由」を守るか --- 長谷川 良

アゴラ

オランド仏大統領は1月9日夜、2件のテロ事件の解決を受け、国民に向かって反テロで一体化しよう」と呼びかけた。

武装した2人のイスラム過激派テロリストが7日、パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」本社を襲撃し、自動小銃を乱射し、建物2階で会議を開いていた編集長を含む10人のジャーナリストと、2人の警察官を殺害するというテロ事件が発生した。その直後、同テロとの直接の関連は不明だが、1人のテロリストが別の場所で警察官を射殺、ユダヤ系スーパーマーケットを襲撃し、人質を取るといった事件が起きた。3人のテロリストは9日、治安部隊との衝突で射殺され、多くの死傷者を出した2つのテロ事件は一応幕を閉じた。


パリ市民はテロ事件の直後、「Je suis Charlie」(私はシャルリー・エブド)という抗議プラカードなどを掲げ、「言論の自由」の擁護に立ち上がっている。8日夜には週刊紙本社前などで約10万人の市民が抗議デモに参加した。メディア界の片隅に席を置く当方もパリ市民の「言論の自由」に対する毅然とした支援に感動を覚える。

イスラム過激派テロ問題については、「フランスのテロ事件への一考」(2015年1月9日参考)のコラムの中で言及したので、ここでは、「言論の自由」について少し考えてみた。

「言論の自由」は民主主義の要だ。冷戦時代、旧ソ連・東欧諸国を取材してきた当方はその価値を実感として知っている。同時に、「言論の自由」は無制限か、という問いかけも抱えている。

オーストリア国営放送の夜のニュース番組の中で、コール元国会議長が「仏週刊紙の内容はわが国では猥褻罪に該当するケースが多いから、押収されるだろう」と述べていた。同元議長は与党国民党に所属し、保守的論客としても知られている。そのコール氏は「フランスでは風刺が国の文化であるかもしれないが、その表現、内容は明らかに猥褻なものが少なくない。フランスでは『言論の自由』を優先し、猥褻な内容を許しているが、わが国は違う」と述べていた。

コール氏の発言は多分、少数意見であり、大多数の政治家、メディア関係者はテロ事件の犠牲者を追悼し、仏週刊紙を擁護する発言をしている。

当方は「言論の自由」にも一定の制限が必要と考えている。私たちが常に100%、正しい判断ができるならば、「言論の自由」に制限は必要ないだろう。何が良いか、悪いかを自身で判断できるからだ。メディアが流す猥褻な性情報を読んだとしても、その影響は多分ないだろう。しかし、現実はそのような猥褻な性情報や記事に触発され、多くの性犯罪が発生している。テロリストもメディアを巧みに利用するケースが増えてきているのだ。

今回のテロ事件の原点に戻って考えてみよう。「シャルリー・エブド」紙は、2011年と12年にイスラム教の預言者ムハンマドを風刺した画を掲載。13年には「ムハンマドの生涯」と題した漫画を出版した。そして今回のテロリスト側の主張は預言者ムハンマドへの風刺への報復だった。

もちろん、いかなる動機でもテロ行為は許されないが、彼らのテロ行為の動機は明確だった。週刊紙本社を襲撃した一人のテロリストは「市民を殺害する考えはない」と語っていたという。彼らのターゲットは「シャルリー・エブト」紙で風刺を書いたジャーナリストたちだったのだ。

欧州社会ではイスラム・フォビアだけではなく、クリスチャン・フォビア、反ユダヤ主義も吹き上げている。社会の至る所に他宗派へのフォビア(憎悪)が席巻している。そのような時、他宗派の宗教心を風刺し、ちゃかしたり、罵倒することは火に油を注ぐようなものだ。

前ローマ法王べネディクト16世は2005年9月、訪問先のドイツのレーゲンスブルク大学の講演で、イスラム教に対し「モハメットがもたらしたものは邪悪と残酷だけだ」と批判したビザンチン帝国皇帝の言葉を引用したため、世界のイスラム教徒から激しいブーイングを受けたことはまだ記憶に新しい。

「21世紀は宗教の世代だ」と述べた宗教学者がいた。「科学の時代が到来し、宗教は消滅していく」と考えてきた多くの知識人たちにとってこの発言はプロパガンダ以外の何ものでもないかもしれないが、世界の現状は宗教学者の予言を裏付けてきているのだ。世界各地の紛争には程度の差こそあれ、宗教間の対立問題が関わっているからだ。

仏週刊紙はイスラム教だけではなく、キリスト教に対してもえげつない表現で風刺してきた。風刺はえげつなく、中傷を伴うものだといえばそれまでだが、宗教問題に関連した紛争が多発している今日、他宗派の宗教心に対し賢明な対応が求められているのだ。

多くのパリ市民は「私はシャルリー・エブド」とシュプレヒコールしてテロに抗議した。その昂った気持ちは理解できるが、「私」と同週刊紙を同一視することは、同紙が掲載してきた様々なフォビアを支持することにも繋がる。「擁護するからと言って、同週刊紙の内容を支持しているのではない。支持しているのは言論の自由だ」と、賢明な知識人は反論するだろう。

それでは、もう少し突っ込んで尋ねてみよう。テロに屈せず守るべき「私の言論の自由」とは何か。私が擁護しようとする「言論の自由」はどのような価値観に立脚しているのか、等の疑問に答えなければならない。明確な価値観、倫理観を持たない「言論の自由」は本来、あり得ないはずだ。

繰り返すが、如何なるテロ行為も許されないし、テロは蛮行だ。オランド大統領が述べたように反テロでわれわれは連携しなければならないが、どのような「言論の自由」をわれわれは今後、命を張ってでも守らなければならないのか、真剣に考えるべきだろう。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年1月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。