好かれない日本人

岡本 裕明

海外旅行に行くと日本人は比較的歓迎されます。ホテルはきれいに使うし、文句は言わないし、お金はきちんと払います。国際線の飛行機に乗って降りる際、外国人が使った座席の後はごみの残骸に毛布やらスリッパが散らかり放題もよく見かけますが日本人が座った座席のあとは毛布が畳んであったりします。


外国に住む私がローカルの人からどう見られているのか、といえば「よい人」らしいのですが、ややとっつきにくいようです。理由の一つに私が現場仕事をするからでしょう。「日本の神々は働いていたのですよ、だから我々民も働くのは当たり前で宗教観、労働観の違いです」と言っても延々と説明するならともかく、立ち話程度ではやっぱり変人と思われているでしょう。そこで「いや、日本では上場会社の社長さんでも現場で法被姿や前掛けをして販売の前線に立つことはある」といえばもはやチンプンカンプンの世界になってしまいます。

外国にいると外国の常識観を主とし、私のような変わり者は亜流と思われるのは残念ではありますが、致し方ありません。ただ、我慢が出来ないと喧嘩をするのも私の性分で論争でも裁判でも受けて立つと決めたら徹底して戦います。裁判は今のところは負けなし5勝で今、6戦目に本格突入しています。戦い方はただ一つ。証拠と論理で誰も反論できないようにしてKO勝ちすることであります。

但し、私も勝てない勝負は端から致しません。あるいは論理的に勝てるとしても全体を考えた時、勝敗よりも引いた方が得な時はあっさり引きます。外国人は論争の時「apology (謝り」を引き出すことに比較的こだわる気がします。アメリカの場合特にそうですが、「sorry」を言わない文化というのは保険のクレームに影響するからというのがまことしやかにささやかれたりしたものですが、それ以上にメンタル的に負けを認めるのが嫌なのだろうと思います。

ドイツ人と日本人は昔、同じ戦いを挑んだ仲間であり、戦後復興も努力家だった両国の国民性の賜物だと少なくとも私は小さい頃そう教え込まれていました。しかし、最近のドイツは日本に非常に厳しい姿勢を持っていると聞こえてきます。原発問題の扱いなどは確かに相違はありますが、日本が味方を巻き込んで主張すべきをしていない点もある気がいたします。特にメルケル首相が3月に来日するのはG7がドイツで開催されるにあたり唯一日本とすり合わせができていないために忙しい中、わざわざ来日するのですが、逆に言えば戦後の首相でもっとも多くの外国に訪問したはずの安倍首相とメルケル首相の接点が少なかったとも言えるのです。

日本の首相が国際会議以外で海外に行くときは「外遊」という顔見せが主であり、緊迫した交渉とは違います。大陸の国家主席は近隣諸国とのコミュニケーションを通じて徹底的な討論をもとに落としどころを見出しますが、日本は島国という事もあり、その機会が少なかったことは確かであります。欧州の大統領、首相が隣町に行く感じでトップ会談を頻繁にできるのは地政学的メリットがあるのでしょう。日本は島国ゆえ議論が受身的な要素が多くなっています。

日本人が好かれないのはなぜだろう、と外国に住む私があえて考え直してみると好かれないのではなく、「理解されていないのだろう」ではないかという気がします。日本人が外国人の集団の中に入った場合、日本人が積極的に会話に割り込み、自分の意見を言うシーンにはあまり出くわしません。事実、私も長いことそうでありました。人前で意見を言い慣れていないシャイさ、英語が十分でない、言いたいことを完璧に言おうとする無駄な努力などであります。

しかし、ある時、その方針を変えてかなり主導的に言葉を発するようにしたところ相手の接し方が明らかに変わってきました。全く知らない人でもごく普通に会話を生み出すことができるようになったのはしゃべることでこのコミュニティに入り込み仕事ができるというメリットと共に、先にしゃべった方が楽ということを実感できるようになったからでしょう。

それともう一つ。日本人の会話には防御的姿勢が強い気がします。細かい所にこだわりそれは○ではなく◎といったことはベクトル上、同じであってこだわらなくてもどうでもよい話も多いものです。むしろ、外国人と話す時、「なるほどねぇ」と言わせた時、私はよっしゃ、と思います。

外国人を説得させるには大所高所から論理的にポイントを抑え、期先を制することで「こいつは違う」と思ってもらえると思えます。逆に言えば外国人には日本人に対する先入観としておとなしさ、従順さ、説得のしやすさを見透かされてしまっているのかもしれません。顔を真っ赤にして論戦できるようになれば大したものです。

今日はこのぐらいにしておきましょう。

岡本裕明 ブログ外から見る日本 見られる日本人 3月1日付より