世の中を変えるのは正義ではなく妥協 --- 宇佐美 典也

アゴラ

最近身の回りで色々と紛争が耐えないもので禅問答でもしてみようと思う。

世の中とは厄介なもので、人の数だけ正義がある。


だから「絶対的に正しい」という正義は存在しないわけで、自分なりの正義を「~は○○であるべきだ」ということを声高に唱えたところで、それは人には通用しない。人には人の正義がある。

そんなわけで自分の正義が他者より優れていることを示す方法として「論理」というものが発達した。「お前の言っていることよりもオレの言っていることの方が論理的だから正しい」というわけである。こうして世の中に「論戦」というものが生じることになる。

さてでは「正しいことを唱えて論戦に勝つ」ことで世の中が動くというと、残念ながらそういうわけではない。そもそも正義というものは価値観や感情に根ざすので、多くの場合論戦に負けたところで負けた方は「正しい意見」に従うわけではなく、新しい「論理」を開発して再戦に挑む。結局当事者同士の正義の議論は収拾がつかなくなる。

では論戦を解決にはどうすれば良いのか

というと論戦自体は「現実にある問題」に対するスタンスを巡る表象的な争いなので、そもそもに溯って「問題意識」を共有して、論戦の当事者間の根本的なしこりを解消することが重要になる。それが解消されれば「正義の論戦自体に意味が無い」ということは誰しもが本当のところ分かっているので、価値観が違うものは共存するため「妥協」するなり「折衷案」なりを模索するようになる。あくまで「民主主義社会ならば」の話であるが。

ということで「論戦」というものが生じたら「そもそもこの論戦を引き起こしている根本的問題とは何か?」ということを考える必要がある。そして「その問題を解決する」という意識を共有することが重要になる。もし問題意識が共有できないなら、二度とその人とは交わらなければ良いわけだし、問題意識が共有できるなら「妥協」か「折衷案」を模索すれば言い訳だ。。。なるほど。。。。

あんまり抽象論ばかり述べても、仕方ないので分かりやすい問題で整理したい。さてここに「平和な国に住みたい!」という根本的な問題意識があるとする。これ自体はごく一部の狂人を除いて万人が共有できる問題意識だと思う。

この時価値観の分岐がある。積極的な判断としては「戦争をしても圧勝できるほど強い国になる」というものがあり、消極的な判断としては「戦争を絶対しない国になる」というものがある。どちらも一理あり、どちらの手段を選択するは価値観の問題である。そしてこの価値観から正義が派生する。

正義①:戦争をしないために武器を持っては行けない

正義②:戦争で圧勝できる体制を作るため武器を持って強くなれなければいけない

この2つは矛盾しており相容れない正義で、両方の論者が「正義の論戦」をしても 千日手となる。ここで重要なのは、問題意識が共有できるかどうかで、ここで両方の正義の論者が、お互いとも「平和な国に住みたい」という同じ問題意識を持っていることを認め合えれば「妥協・折衷案」が生まれてくる。これはまさしく日本の右翼と左翼の論戦で、両者の妥協・折衷案として

妥協案①:武器は持つが戦争は仕掛けない(憲法9条)

妥協案②:(戦争に圧勝できる)強い国と同盟を組む(日米安保)

という戦後日本の戦略が生まれた。そう考えると戦後の日本の政治家は右翼も左翼も問題意識を共有した上で議論をしていたように思える。この点、「安倍首相は戦争をしたい」と決めつけて、「I am Abe」か「I am not Abe」か、という二者択一の論戦を提示する、古賀茂明氏とは明確な違いがある。

少し筆が滑るが、現在の日本の状況を考えるに、妥協案①、②の範疇を出ない議論をすることが大事なように思えて、右翼は憲法9条を改正するにしても第1項には手をつけてはいけないし、一方で左翼は日米安保の都合で集団的自衛権を容認することを認めなければならないように思える。繰返しになるが、妥協こそが世の中を変える。

本来私が考えるべきはごく身の回りの小さな問題で、こんな大きなことを考えても仕方ながないのだが、あくまで頭の整理としてこんなことを書いてみた次第である。

ではでは今回はこの辺で。


編集部より:このブログは「宇佐美典也のブログ」2015年3月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は宇佐美典也のブログをご覧ください。