政治家は恐ろしく多忙である

北尾 吉孝

安岡正篤先生はその御著書『東洋宰相学』の中で、「国家のためとか、民衆のためとか、奉仕とか、公僕とか、平生どれほど無欲で謙虚なことを口にしていても、いざ政権の争奪となると、またひとたび政権を取ったとなると、どう堕落しやすいか、これは誰も知っていることである」と述べておられます。


同著でまた先生が、「政治家は恐ろしく多忙である。(中略)こういう多忙や奔走というものがどんなに人間の心情を荒(すさ)ませるかは言うまでもない。(中略)まして党派の中に伍して、対立や忿争に駆りたてられる生活がどんなものであるかは想像に余りがあろう」と言われている通り、多くの政治家にとっては選挙の得票と権力の掌握が全てです。

『Voice』最新号(15年5月号)にもある政治学者の次の見解、「移動の合間の読書を積み重ね、ブログなどで報告するような議員はいまでもいる。しかし、合間ではなく主要なスケジュールとして、政策のための読書や議論の時間が来るべきだろう。(中略)本来の職務である政策形成にもっと時間を割くべきである」が載っていましたが、之はその通りだと私も思います。

冠婚葬祭に頻繁に担ぎ出され、駅前に毎朝立っては演説をし、地元に戻っては次の選挙に備える、といった具合に政治家の多くは忙し過ぎて兎に角時間がなく、ゆっくりと読書をする暇もないような状況です。

しかしそうした状況が良いはずもなく、それなりの人から耳学問でも得れば良いのですが、今の政治家はそれなりの人も近辺に置いてはいません。

昔であれば、吉田茂氏や池田勇人氏あるいは佐藤栄作氏や大平正芳氏等々、多くのリーダーが安岡先生を信奉し、先生から御進講を受け様々な話を聞いたりしていました。

また大平氏などは、「どんなに忙しくても毎週一度や二度最寄りの本屋に立ち寄り、二、三冊新刊を求める」というように、彼自身が大変な教養人で数多の書籍を読んでいたわけです。

翻って現役の政治家を見るに、耳学問を得るといっても安岡先生のような人物もいなくなり、誰に御教授願えば良いのかも分からない上、自分自身でそうした人物を探し出し親炙して行こうという議員も殆どいないように思います。

先月も当ブログで指摘した、歴代政権が為し得なかった歳出改革の本命である社会保障改革(、即ち医療費と介護費の伸びに歯止めを掛ける改革)を通じた財政の健全化にしても、世界の社会保障政策を勉強するに十分な時間を得られねば、結局官僚機構にいいように使われてしまうのではないでしょうか。

他方、日本の政治のレベルあるいは政治家のレベルと言っても良いかもしれませんが、それは国民の選択により為されるものですからイコール国民のレベルを指しています。

例えば『学問のすゝめ』の中で福沢諭吉も、『かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭(さと)すべき方便なければ、ただ威をもって畏(おど)すのみ。西洋の諺(ことわざ)に「愚民の上に苛(から)き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災(わざわい)なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり』との指摘を行っています。

要するに愚民が選んだ政治家はこれまた愚かであるわけですから、やはり選挙権を行使する側が一体何を以て人を選んで行くかということも改めて行かねばなりません。

民主主義というのは基本は数が決めるわけですから、それは往々にして衆愚政治という形になって機能不全に陥る可能性があるものです。

即ち、数の力によって正論を吐く一握りの人達が埋没され、間違った事が正しい事のように扱われ、結局通ってしまうといった問題を内包しているというわけです。

それ故、どうしても一般大衆のレベルを上げねば良き政治は成り立たず、常日頃から政策を選べる程度まで色々勉強をしておくことが望ましいのですが、残念ながらそういうことをする人は殆どいないのではないかという気がしています。

そもそも投票所にすら行かない国民の多数の投票行動は論外として、一票を投ずる側もそれで選ばれる側も、もう少し多くの人達が民主主義という社会システムの理解を深め自らのレベルを上げることに日々努め、共に政策において如何に在るべきかということで健全な政治を目指して欲しいものであります。

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