「解放」と「敗戦」ではどこが違うか --- 長谷川 良

アゴラ

“音楽の都”として世界のクラシック・ファンから愛されているオーストリアの首都ウィーン市がソ連赤軍(当時)によってナチス・ドイツ軍から「解放」されて今年4月13日で70年目を迎えた。それを記念してウィーン市のロシア兵記念碑前で駐オーストリアのロシア大使などを招き、70年追悼集会が開かれた……オーストリア通信(APA)が14日、報じた。



▲ウィーン市内のソ連赤軍とナチス軍の戦闘(オーストリア国営放送のHPから)

APA記事は「ウィーン市周辺で4月5日、激しい戦いが始まった。そして13日夜にはウィーンは解放され、その直後、第2共和国が建国された」という書き出しで始まる。そして「ヒトラーはウィーン市をドイツ第3帝国の第2の首都と宣言して、その防衛を指令した。ソ連赤軍はウクライナの3戦線からウィーンに侵攻し、ナチス軍と激しい戦闘の末、13日午後2時、戦争終焉を宣言し、同市を解放した」という。

この記事をそのまま受け取ると、ウィーン市はナチス・ドイツ軍に占領されてきたことを意味するが、ヒトラーがウィーン市の英雄広場で20万人の市民を前に凱旋演説をしたこと、ウィーン市民が自国出身の指導者ヒトラーを大歓迎したことを少しでも知っている読者ならば、「解放」ではなく、「敗戦」を迎えたというべきではないか、といった素朴な疑問を感じるだろう。

オーストリアは1938年から45年の間、ヒトラー政権に強制的に併合された、という理由から、戦後も長い間、「わが国はヒトラー政権に占領されてきた」と考えてきたし、多くの国民もそのように信じてきた。実際、ヒトラー政権に命がけで抵抗した人物の追悼日には、「ナチス軍に抵抗した英雄」といった見出し付きの記事が同国メディアで大きく報じられてきた。

ところで、「解放」と「敗戦」では文字が違うだけではなく、意味もまったく異なる。ナチス・ドイツ軍と共に戦闘したオーストリアはヒトラーの戦争犯罪に関与したことは間違いない。歴史家は「ナチス親衛隊(SS)ではオーストリア出身者がドイツ人より多かった」と証言しているほどだ。オーストリアのワルトハイム大統領(任期1986年7月~92年7月)はナチス・ドイツ軍の戦争犯罪に関与した容疑から、世界ユダヤ協会から激しいバッシングを受け、再選出馬を断念せざるを得なくなったほどだった。

オーストリアは戦後、長い間「解放史観」を学び、「敗戦」という事実を覆い隠してきたが、フフランツ・フラ二ツキー首相(任期1986年6月~96年3月)がイスラエルを訪問し、「オーストリアにもナチス・ドイツ軍の戦争犯罪の責任がある」と初めて正式に認めたことから、同国は「解放史観」から文字通り解放され、事実に直面するようになった。そこまで到達するのに半世紀余りの月日が必要だったのだ。

興味深い点は、オーストリアは敗戦後、米英仏ソの4カ国に10年間、分割統治されたが、同国の歴史書ではこの期間を「4カ国の占領期間」と表現するケースが多いことだ。

ちなみに、ウィーンがオスマン・トルコ軍に包囲された時(1683年)、ポーランドや欧州のキリスト教国がウィーン市を救済するために結集し、北上するオスマントルコ軍を押し返した。この史実は「ウィーン市の解放」という見出しで歴史書に記述されている。この場合は正しい歴史的認識だ。

ここまで書いてくると、「敗戦」を「解放」と歴史書に記述してきた国は必ずしもオーストリア一国だけでないことを思い出す。隣国・韓国も日本が敗戦した日を独立記念日(光復節)として国を挙げて祝ってきた。それに対し、日本の歴史学者には「韓国は当時、旧日本軍の一員として共に戦った」と指摘し、韓国の解放史観に疑問を呈する声がある。

オーストリアは「ナチス・ドイツ政権との併合後は主権国家オーストリアは存在していない」という理由から、久しく戦争犯罪問題を回避してきた。これと同様、韓国は、「日韓併合(1910年)以後、主権国家・韓国は国際法上存在しない」という理由から、旧日本軍の「敗戦」に対して一線を敷いてきた。オーストリアと韓国両国の近代史は驚くほど酷似しているのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年4月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。