昭和天皇と平和① 戦争へ向かう国の立憲君主としての苦悩 --- 宇佐美 典也

アゴラ

戦後70年ということもあり、また安全保障法制の議論も高まってることもあり、一つの考える材料として「昭和天皇語録」という本を呼んだのだが大変考えさせられた。


前半は日本が第二次大戦に突入し敗戦をするまでの間の天皇陛下のお言葉、後半は日本が戦後の荒廃から復興する過程での天皇陛下のお言葉をまとめているのだが、なんというか「帝国統治の大権」と「日本の象徴」という重大な責任を背負わされた方の計り知れない責任感と苦悩を思わせる内容だった。

戦前の昭和天皇は世界平和への思いが強く、陸軍の対外拡張的な態度に非常に批判的で、アメリカとの関係を重視し、日独伊三国同盟にも否定的であったが、「君臨すれども統治せず」という態度に極力徹し、時代の流れには逆らえずなし崩し的にそれらを認めざるを得なかったことが読み取れる。

戦前の日本において、戦争への流れを止められる唯一の立場ではあったのだが、それに向けて自身が行動すること自体が立憲君主制の根本を崩すものとして葛藤した姿がうかがえる。さしづめ現在へのフィードバックとして感じることは、同盟国の選択こそが日本の平和維持にとって政治的に最も大切なことで、昭和天皇もそのことをよくご存じであったからこそ三国同盟に抵抗されたのだろうと思うところである。

あまり偉そうなことをいうのも僭越なので、代表的な発言を以下に列記ておくことにしたい。

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〇満州事変のなし崩し的な戦線拡大に際して(1931年9月)

→「軍の出先は、自分の命令を聞かず、無謀にも事件を拡大し、武力をもって中華民国を圧倒せんとするのはいかにも残念である。ひいては列国の干渉を招き、国と国民を破滅に陥れることになっては誠に相すまぬ。九千万の国民と皇祖皇宗から受け継いだ祖国の運命は、今自分の双肩にかかっている。それを思い、これを考えると、夜も眠れない」

〇天皇機関説論争での美濃部達吉バッシングについて(1935年10月)

→昭和天皇は天皇機関説に理解を示しており美濃部達吉をバッシングする陸軍の姿勢に反感を覚え「美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部は決して不忠のものではないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。ああいう学者を葬ることは頗る惜しい。」とおっしゃった。

〇日独伊三国同盟交渉に関して(1939年5月)

→昭和天皇はドイツがイギリスと戦った場合、日本は対英戦、ひいては対米戦に巻き込まれるとして、「参戦は絶対に不同意なるむね述べ起きたり」と述べた

〇ノモンハン事件について(1939年6月)

→「満州事変の時も陸軍は事変不拡大と言いながら、かのごとき大事件となりたり」

〇独ソ不可侵条約締結に伴う日独伊三国同盟の一時交渉決裂に関して(時期不明)

→「海軍が良くやってくれたおかげで、日本の国は救われた」

〇ドイツのヨーロッパ席巻で再び日独伊三国同盟の熱が高まり締結に至るまで(1940年9月)

→「アメリカに対してもう打つ手がないというならば致し方あるまい。しかしながら、万一アメリカとことを構える場合には海軍はどうだろうか。よく自分は、海軍大学の図上作戦では、いつも対米戦争は負けるのが常である、ということを聞いたが。大丈夫だろうか。」

→「この条約は、非常に重大な条約で、このためアメリカは日本に対してすぐにも石油や屑鉄の輸出を停止するであろう。そうなったら日本の自立はどうなるか。こののち長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちに置かれることになるかもしれない。その覚悟がお前(岡田首相)にあるか。」

→「独伊のごとき国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」

〇大政翼賛会の成立について(1940年10月)

→「このような組織を作ってうまく行くのかね。これではまるで昔の幕府ができるようなものではないか」

〇御前会議での日米開戦の決定に際して(1941年12月)

→「このようになることはやむを得ぬことだ。どうか陸海軍は協調してやれ」

〇太平洋戦争序盤の連戦連勝について(1942年2月)

→「戦争の終結につきては機会を失せざるよう十分考慮していることとは思うが、人類平和のためにも、いたずらに戦争の長引きて惨害の拡大しゆくは好ましからず。」

〇ガタルカナル島からの撤退に際して(1942年)

→「アメリカは新飛行場を急速に仕上げるのに、日本はその何倍の時を要するようだが、理由はどこにあるか。なんとか改善の途はないのか。」

→「ノモンハンの戦争の場合と同じように、我が陸海軍は、あまりにも米軍を軽んじたためソロモンでは戦況不利となり尊い犠牲を出した。」

〇アッツ島玉砕に際して(1943年6月)

→「なんとかしてどこかの正面で米軍を叩き付けることはできぬか」

〇東京の空襲が激化する中で避難を促されて(1945年5月)

→「私は市民と一緒に東京で苦痛を分かちあいたい」

→(実際に宮中が焼けて)「これでやっと、みんなと同じになった」

〇三種の神器に関して(1945年7月)

→「万一の場合は自分がお守りして運命を共にするしかない」

〇終戦を決める御前会議にて(1945年8月14日)

「自分はいかになろうとも、万民生命を助けたい。この上戦争を続けては結局我が国が全く焦土となり、万民にこれ以上苦悩をなめさせることは私としては実に忍び難い。祖宗の霊にお答えできない。~今日まで戦場にあって陣没し、あるいは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたるものの生活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてはなすべきことがあれば何でも厭わない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。」

〇終戦の手続きを終え辞表を提出する鈴木貫太郎首相に対して

→「ご苦労をかけた。」

〇マッカーサーとの面談に際して(1945年9月27日)

→「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためにおたずねした」

→「自分は今度の戦争に関して重大なる責任を感じている。従って絞首刑も覚悟している、また皇室財産は司令部の処置に任せる。自分の一身はどうなってもよいから、どうか日本国民をこの上苦しめないでもらいたい」

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次回は戦後の陛下のご発言をまとめたいと思う。

ではでは、今回はこの辺で。


編集部より:このブログは「宇佐美典也のブログ」2015年4月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は宇佐美典也のブログをご覧ください。