21世紀の尊皇攘夷運動=安倍政権は開国政府を作れるか?

安部首相の米議会での演説を受けて(なのかどうかはわかりませんが)、自民党の若手議員有志が、「歴史修正主義的な過剰なナショナリズムを排し、保守の王道を歩む」勉強会を始めたそうです。

これはまあ、どんな立場の人にとっても「良いニュース」と言っていいように思います。しかし、これがどの程度広がるのか、ただ一部の議員のヒソヒソ声に終わってしまうのか、それとも1つの大きな傾向として育っていくのか?には、「よくある陣営対立」を超えた視点で物事を見る姿勢が、どんな立場の人にとっても必要なタイミングではないかと私は考えています。

究極的には、安倍政権の一部に「やり過ぎな右傾的要素」が含まれているという「事情」自体を解決するように持っていかないと、いくら一部の議員が勉強会を開いても、「自民党のマジョリティ」や「その支持者」の方針は変えられないからです。

なぜ変えられないか?

そりゃあ”アイツら”がゲスで愚鈍で時代の流れについてこれない品性下劣な人種差別主義者だから?でしょうか。

そうではありません。彼らがそうしなくてはならない事情があるからです。

あなたの信条から言って彼らの行動・言動が許せないのなら、それを批判し、否定し、変えようとすることは大事なことです。しかし、同時に、「相手がそれをやらずにはいられない事情」を放置したままでいると、どこまで行っても平行線のまま余計に過激化が進むことになります。

「理解すると、理解される」という言葉がありますが、「彼らの事情を理解して、そしてその事情を”彼らとは違うやり方で”解決に向かおうとすること」が、この問題の根本的な解決のために必須な思考法なわけですね。

そのためには、安倍政権のムーブメントが、ある種の「尊王攘夷運動」のようなものだと見る姿勢が第一歩になります。

日本の幕末については色んな考え方があって、例えば私は大学時代山口県出身の女性と一緒に住んでいたんですが、郷里のご両親にお会いしに行った時に、あまりに「ついさっき近所の兄ちゃんが東京に行って政府を作った」ぐらいの気分で話している高齢者がいるのに驚愕しました。

そういう「薩長土肥的英雄譚」として幕末の歴史を読みたい人と、それに対して冷笑的な態度を取りたい人が日本の中にいることは自然なことだと思いますし、例えば「革命側」が色々と無茶をしたことを「歴史修正主義」的に塗りつぶしてしまうことはよくありません。

しかし一方で、じゃあ「そういう無茶をしてまでも成し遂げられたこと」というのが一方であった時に、その功績も全部否定されてしまうと、それはそれで「嫌だ」というかそもそも「アンフェアだ、おかしい」と思う人も、また当然多くいるだろうと思います。

じゃあ、何らかの統一的リーダーシップを誰も取らなくて、あのまま西欧列強に分割統治されて、当時の清国が陥ったような悲劇になっても良かったのか?というと、それはやっぱねえ・・・ということになるでしょう。

そのプロセスの初期には、「尊王攘夷運動」といって、もうガイジン見たら全員斬り殺せ!というレベルの運動だってあったわけですし、まあそれはそれは野蛮だし、今から見るとムチャクチャですよね。

もっと理性的で良心的な運動によって統一がなされたら良かったのに・・・というのはまあ、確かに理想論としてはそうです。

しかしね、この文章にネットで出会ってちゃんと読んでるあなたのようなインテリと、私が密室で二人で話し合って「そうだね、そういう側面もあるね」と言うレベルで同意できるかどうか?という話じゃないわけですよねこれは。

今まさに侵略されて分割されてしまうかもしれない!という危機状況の中で、曲がりなりにも統一的に行動を起こせる政府を作らなくちゃという「免疫力」を発揮するためには、多少アレルギー反応的に大げさであっても、強力な熱量を発するようなムーブメントが「必要」だったところはあるでしょう。

要するにこの問題は、

「何かみんなのためになること」を必死にやった人が巻き添えに被害者を出してしまった時に、その対象をどう評価するか?

という問題なわけです。

ある人は、その「巻き添えの被害者」のことを重く見るだろう。ある人は、「何かみんなのためになること」を必死にやったことの価値を重視するだろう。

それぞれの価値観の違いを尊重することは大事なんですが、でもこれ、「そのまま」理解できりゃ一番良いですよね。

・「功績を讃えたい」人だって、功績を否定されないんであれば、過ちも認められる。
・「過ちを正したい」人だって、それを否定されないんであれば、功績があったことは認められる。

「ヒロイックな功績」にフルフルと感動した人だって、その「功績」を否定されないのであれば、「過ち」をも、「そうなってしまったことは力不足だった。もっと向上しなければ」という方向にプライドを保ったまま理解できる。

「過ちを正したい人」だって、過ちを指摘するだけでは片手落ちだということは普通はわかってることが多いでしょうから、「過ちを正す論理」が毀損されないのであれば、功績を認めるにやぶさかではない・・・ということになるでしょう。

そういう経路から、「歴史修正主義者が出てきてしまう状況」自体を根本治療的に解決する方法について、今後書いていきたいと思っています。アゴラでは分割掲載をしているので、一気読みをされたい方は私のブログでどうぞ。

全体としてのこの話を一枚絵で表すと、以下のようになります。

それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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