「寛容」は同性婚を支える魔法の言葉 --- 長谷川 良

当方はこのコラム欄で数回、劇作家オスカー・ワイルド(1854~1900年)の話を紹介した。当方の義兄はワイルドの作品が大好きで、「幸福な王子」を紙芝居にしたほどだ。ワイルドは当時、同性愛者として刑罰に処され、刑務所生活を過ごした人物だ。彼が22日の母国アイルランドの国民投票結果を知ったならば、どのように考えるだろうか。アイルランドで同性婚を合法化する憲法修正案が承認されたのだ。


アイルランドで22日、同性婚を合法とする憲法修正案の賛否を問う国民投票が実施され、賛成が62・1%で承認された。その結果、同性婚の権利は従来の法的な平等から一歩前進し、憲法にその権利が明記されることになる。

約320万人のアイルランド国民を対象に、「婚姻は将来、性差を問題としない」の是非が問われた。そして「イエス」が過半数を獲得したことで、「婚姻は男と女の間の夫婦」と規定してきた同国憲法41条は修正されることになった。

ちなみに、海外居住の若いアイルランド人は今回の国民投票に一票を投じるため母国に帰国するなど、国民投票に対する国民、特に若い世代の関心は高かった。

同国では2010年以降、同性婚は通常の夫婦と法的には同じ扱いを受けてきた。具体的には、遺産相続、滞在権利などは同等だった。今年に入り、庇護、養子の権利も認められた。そして今回、同性婚の合法が憲法に明記されることになったわけだ。

同国では1993年まで同性愛者は刑法によって処罰を受ける対象だった。すなわち、犯罪者扱いだった。先述したように、あのオスカー・ワイルドは同性愛行為の罪で刑務所生活を送っている。ワイルドが刑務所生活を送っている時、家族は名前を変え、社会の批判から逃れる生活を送らざるを得なかったのだ(「あのオスカー・ワイルドがいたら」2015年2月11日参考)。

同性婚問題では同国のローマ・カトリック教会は強く反対してきた。今回の国民投票でも信者宛に「婚姻の意味」とタイトルが付いた書簡を送り、反対を呼び掛けてきた。しかし、教会が国民を説得できる時代は同国では久しく過ぎ去っていた。

アイルランド教会では1970年、80年代に数百件の聖職者の性犯罪が発覚し、欧州全土のキリスト教会に大きな衝撃を投じたことはまだ記憶に新しい。教会側は聖職者の未成年者への性的虐待事件を庇い、隠してきたとして厳しく批判された。同国のエンダ・ケ二ー首相(当時)は2011年7月、バチカン法王庁を名指しで非難し、議会が非難声明文を採択したのはアイルランドが初めてで、異例のことだった(アイルランド国民の約89%はカトリック教徒)。国民投票の結果、同性愛者の婚姻が憲法上公認されたことで、教会は益々その発言力を失うことになるのは明らかだ。

最後に、同性婚と「寛容」について当方の考えを少し書く。

少なくとも欧州では同性婚は市民権を獲得した。そして、それを可能にした最大の原動力は、あの「寛容」という魔法の言葉だ。人は等しく「寛容」でありたいと願っている。なぜならば、自身の弱さも認めてほしいからだ。だから、「同性婚は社会の少数派であり、少数派への『寛容』は社会の成熟度を証明する」と一般的に受け取ってきた。

ただし、少数派への「寛容」といっても、少数民族のチベット人やクルド人への「寛容」とは明らかに違う。「私」の性向、性差への「寛容」だ。極めて個人的な欲求、弱さを社会的少数派という枠組みの中に包み、その権利を擁護していった。換言すれば、同性愛者ではない大多数の人々が「少数派へ」の寛容という時、実際は彼ら自身の弱さへの寛容を求める声でもあったはずだ。少数派の同性婚が短期間で市民権を獲得できたのは、「多数派への寛容」を願う人々の支持があったからだ。

同性婚を合法化することで同性婚者を含む私たち全てが本当に幸せとなるかは分からない。なぜならば、明確な価値観の裏付けのない「寛容」は人を容易に自堕落へと陥れる危険性があるからだ。伝統的な価値観は崩壊したが、「多数派へ」の寛容を支える新しい価値観はまだ構築されていないのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年5月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。