1941年2月にロンメル将軍が着任して以来、北アフリカ戦線において大活躍したドイツ・アフリカ軍団も、1942年8月末から10月にかけてのエルアラメインの攻防に惨敗して戦線の縮小を余儀なくされます。ドイツ軍は一時は現在のチュニジア、リビアからエジプトのカイロを脅かすまでに拡大していた勢力圏をチュニジアまで戻しますが、同年11月になってアメリカ軍がトーチ作戦を発動し、モロッコ・アルジェリアに上陸。東西両面に敵を受けて、窮地に立たされます。1943年3月、ロンメルはドイツ本国に召喚されアフリカ軍団の指揮を解かれ、アフリカ軍団も5月には連合国軍に降伏することになります。
アフリカ軍団の降伏を目前に控えて1943年1月に開催されたカサブランカ会談で、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は、北アフリカ戦の終結後、連合国軍はシチリア島を経て南イタリアへ上陸し、ヨーロッパ本土における対枢軸国戦線をひらくという方針を確認。これには同年2月に半年以上にわたったスターリングラード攻防戦を制し、対独戦で攻勢に転じることになるスターリンが、英米に対してヨーロッパでの地上戦を開始することを強く要求していたことも作用していました。
シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)に対して英米軍が憂慮したことは、北アフリカ制圧後の次の標的がシチリア島であることがあまりにも明白だったことです。シチリア島が地中海における制海権・制空権を抑えるための要衝であることは地図を見れば一目瞭然ですし、対岸の北アフリカに上陸戦の準備のための兵力と物資の集中が行われれば、これはドイツ・イタリア軍の情報網にすぐにわかってしまうことになります。
そこでドイツ・イタリア軍の目をシチリア島から引き離すことを目的に、イギリス諜報部に採用され実行に移されたのがミンスミート作戦です。
ミンスミート作戦の目的は、英米軍の次の目標がシチリア島ではなく、ギリシャとサルディニア島であると思い込ませるために、その旨を示唆する偽造された機密書類をわざとドイツの諜報網に入手させることでした。このための手段として、イギリス諜報部は、ニセの機密書類を携帯したイギリス軍将校の死体を中立国スペインの海岸線に投棄し、これがドイツ諜報員の目につくように仕向けたのです。
死体を利用した欺瞞作戦自体を発案したのは当時イギリス諜報部にいた「007」の作者、イアン・フレミングなどと言われていますが、1942年9月には実際に本当の連合国軍の密使を乗せた飛行機がスペイン、カディス沖で墜落し、海岸に打ち上げられた密使の死体からホンモノの機密文書が駐スペインのドイツ諜報部員の手に渡ってしまったという事件がありました。ミンスミート作戦はこのケースを逆手にとろうという意図もあったのです。
実際のミンスミート作戦の計画と実行にあたったのは、イギリス諜報部において陸・海・空の各軍諜報部の橋渡しをする連絡委員会であったXX委員会に所属するモンタギュー海軍少佐とチャムリー空軍大尉。「XX」とはダブルクロスを意味します。つまりこの委員会はイギリス諜報部において、イギリス側に内通しているドイツのスパイ(ダブル・エージェント)をコントロールすることを主な目的としていました。「XX」がローマ数字の「20」であることから、この委員会は「20委員会」とも呼ばれていました。
モンタギュー少佐とチャムリー大尉は、ネズミ捕りの毒薬で自殺した浮浪者の死体を確保し(後日、これはウェールズ人グリンドウ・マイケルという人物であったことが判明)、これにイギリス海兵隊所属ウィリアム・マーティン大尉(少佐心得)というニセのアイデンティティーを与えます。そしてスパイ用語で「レジェンド(神話)」と呼ばれる架空の「マーティン大尉」の前歴を作成します。このレジェンド作りのプロセスに関しては、モンタギュー少佐とチャムリー大尉はかなり悪ノリしており、ニセのIDカードや、死体に着せる制服などを用意するばかりではおさまらず、マーティン大尉にパムという名の架空のフィアンセを用意し、上掲の「フィアンセ」の写真を死体に持たせ(写真の女性は諜報部の女性事務員)、また彼女からのラブレター、そしてしまいには彼女に買った婚約指輪の領収書、そして銀行からマーティン大尉宛にローンの返済を請求するレターまでを用意するという周到ぶりでした。
もちろん重要なのは、連合軍の次の攻撃目標がギリシャ、サルディニアであるというニセ情報を死体と共に発見されるであろう書類の中にすべりこませることでしたが、これはイギリス参謀本部の副参謀長であったナイ中将から北アフリカのアレクサンダー第18軍指揮官宛の親書の中でこれを示唆するという、なかなかデリケートな偽装となりました。
そのほかに、マーティン大尉がナイ中将から偽の親書を託されたとされる時点(1943年4月24日前後)にロンドンにいたことを証明する目的で、ロンドンの劇場の半券や宿泊先のレシートなどが用意され、これらは死体のポケットなどに入れられ、その他の書類は死体の手首に鎖で繋がれたブリーフケースに入れられました。
こうして準備された「マーティン大尉」の死体とブリーフケースは、ドライアイスと共に鉄の円筒ケースに収納され、ロンドンからスコットランドの海軍基地まで搬送された後、そこでイギリス海軍の潜水艦セラフ号に積み込まれ、4月19日に出港。潜水艦セラフ号は4月30日の未明、そこにドイツの諜報員が常駐していることをイギリス側が察知していたスペイン南西海岸の町ウエルバ沖に浮上し、セラフ号艦長ジュエル中尉は船員たちを艦内に戻らせたあと、他の士官たちとともに円筒ケースを開封し、簡単な葬送の式の後、死体を海岸に向けて押し出しました。
死体は同日午前9時半ごろ、海面に浮遊しているところを地元の漁師に発見されます。死体は漁師によって回収され、ウエルバの町で検死官の検査を受けますが、検査がおざなりであったのでネズミ用の毒薬による服毒死であるという真相は暴かれず、戦死死体として認定され、死体が携帯していた書類によりイギリス海兵隊所属のマーティン大尉としてウエルバの墓地に5月4日、埋葬されました。
死体が発見されたことはスペイン当局により駐スペインのイギリス武官に報告され、イギリス本国のXX委員会もこれを知ることになりますが、肝心の偽装秘密書類に託されたニセ情報が確実にドイツ諜報部員の手に渡ったのかどうかの確認が次の課題となります。モンタギュー少佐は6月4日付のタイムズ紙に「マーティン大尉」がその搭乗機の墜落によって戦死したという記事を掲載することで、ドイツ側がこれを確認する場合に備えると同時に、通信を傍受しているであろうドイツ側にその重要性を強調する目的で、マーティン大尉が携帯した「機密書類」を確保するよう駐スペインの外交官たちに要請するメッセージを送ります。
「マーティン大尉」のブリーフケースと偽造機密書類は当初スペイン海軍が保管していたのですが、イギリス側の狙い通り、当時ナチスドイツに友好的だったスペインのフランコ政権はこれをナチスドイツの諜報部(アブウェーア:Abwehr)の閲覧に提供していました。ドイツ諜報部は偽造機密書類を封筒から抜き取り、その内容を写真に収めたあと、ベルリンの本部に報告します。偽装機密書類は元どおりに封筒にもどされ、ブリーフケースと共に駐スペインのイギリス外交官たちに返還されましたが、もどってきた書類を検査したイギリス側は書類が封筒から抜き取られた形跡を確認します。
偽造機密書類に託されたニセ情報は、そのままヒットラーまで報告されます。ナチスの宣伝相ゲッペルスはこの新たに「発見」されたギリシャ・サルディニア上陸作戦の情報に疑問を抱き、その旨を日記に記していますが、肝心のヒットラーがこれを鵜呑みにしてしまいます。結果として、総統命令で補強部隊がギリシャ、サルディニア、コルシカに増派され、ロンメル将軍がギリシャ防衛部隊の指揮官に任命されます。3個機甲師団がギリシャ派遣となりますが、そのうち2個師団は東部戦線から回されることとなり、これが直後に起こったクルスク戦車戦(1943年7月~8月)の結果にも影響することとなりました。
ミンスミート作戦の本来の目的であったシチリア島上陸作戦においては、7月9日の英米軍の上陸があった後も、ドイツ軍司令部はこれをギリシャ上陸への陽動と勘違いし続けました。約2週間後にようやくシチリアへの戦力の移動を開始し始めますが、時すでに遅し。8月11日にはドイツ・イタリア軍はシチリア島から撤退することになったのです。
結果として大成功を収めたミンスミート作戦。もちろん結果論ではありますが、下にリンクを貼ったBBCのドキュメンタリーの中で、当時のイギリス側の関係者たちはニセ情報が確実にドイツ側に伝われば必ず作戦が成功することを確信していたと言います。それはナチスドイツの諜報関係者が「ストレート・シンカー」、つまり規定路線の上でしか思考しない人間で構成されていたからだと。
不謹慎なくらい自由なゲーム感覚で作戦を遂行させていたモンタギュー/チャムリーのチームに比べて、ナチスドイツの諜報員たちはただ与えられた職務を遂行することのみに集中し、判断責任をすべて上層部に丸投げしていました。結果として一番上のヒットラー総統に至るまで入手された情報のクォリティーに対して意義ある判断を下すものがいなかったのです。
組織として硬直化していたナチスドイツの諜報組織は、イギリス国内での諜報活動でも大失敗を犯しています。ナチスがイギリス国内に送り込んだスパイのほとんど全員がイギリス側に内通しており、前出のXX委員会のコントロール下にいたということがそれです。結果としてナチスドイツはダブルエージェントから流れてくるミスインフォメーションを鵜呑みにし、ノルマンディー上陸作戦の折も、ノルマンディーは陽動で、本当の強襲はドーバー海峡越しに北フランスのカレー周辺にやってくると信じていました。(このミスインフォメーションの成果は、D-Day直前に駐独大島日本大使が日本に送った報告が傍受されることにより連合国側に確認されたというオマケ付き。)
しかし驕るもの久からず。このようにして第二次大戦中は大成功を収めたイギリス諜報部も、大戦中の成功にあぐらをかき、極度な特権意識と身内優先主義のうちに組織としての判断が硬直化します。結果として新たに発生した東西冷戦という状況下において、諜報員の一部が大戦前に反ファシスズム運動を動機として諜報部入りした共産主義者であったことを見過ごし、キム・フィルビーをはじめとする「ケンブリッジ5人組」事件にみられるようなソ連のダブル・エージェントたちによってスキャンダルまみれになるわけです。
第二次世界大戦から冷戦までの諜報戦の歴史を俯瞰すると、諜報機関にかぎらず、組織またその組織の構成員たちの硬直化を防ぎ、その思考・判断の柔軟性を維持していくことの困難をあらためて感じます。ましてや年功序列や入省年次などにより、あえて組織内の人間をがんじがらめにしている我が国の組織構成の慣習の弊害は言うを待たず、ということではないでしょうか。