米中関係の歴史を軸にして日米関係をみる

知っている人にしてみれば「いまさら何を...」というトピックでしょうが、たとえば最近、太平洋戦争にいたる「真珠湾への道」を議論している人たちの会話を岡目八目で眺めていたところ、議論参加者たちの間で「アメリカの中國に対する意図」という視点が驚くほど認識・共有されていなかったので、自分の考えをまとめる意味でも一筆啓上する次第です。

リンカーン大統領は南北戦争(1861~1865)を通じて、大統領の下に強力な連邦政府の権限を集約することになります。奴隷制度をめぐって内乱状態になる以前は、それぞれに権利を主張する州政府連合の上にちょこんとのっかった緩やかな連邦制度だったアメリカ合衆国は、約62万人の戦死者の犠牲の上に、国内の隅々まで行政権を行使する近代国家としての土台を築くことになったのです。

それは明治維新を通じて近代国家への道を歩み始めた日本と歩調を同じくしています。もっともアメリカには建国の父以来の民主主義政治への慣れと、独立以前からのイギリス法の精神に基づく「法の支配」の伝統がありましたが。

南北戦争後、戦時経済を支えて強靭化した産業と、戦時国債の発行・引受によりニューヨークを中心に巨大化した金融システムを両輪に、アメリカ経済は急速に発展していきます。特にアメリカ中西部から西海岸に向けた発展はめざましく、1868年から1873年の5年間のあいだに53,000kmの鉄道が新たに敷設されました。

このような時代を背景に、アメリカはロックフェラーやカーネギーといった実業界の大物や、JPモーガンのような銀行家が幅を利かせるようになり、政治家たちはこうした経済界の意図を奉じ、かれらの利権を保障する金権政治の走狗となりさがります。

しかし急速な経済発展はバブルを生み出し、1873年、1893年と金融危機が引き金となる不況を引き起こします。こうした不安定な世情はアメリカ各地における労働者運動の呼び水となり、ストライキが頻繁に発生するようになります。またある種の「リフレ派」とも呼ぶべき自由銀運動(Free Silver)運動が発生。金と同様に銀を貨幣に鋳造できるようにし、マネーサプライを増加させるというインフレ政策は、アメリカ西部で銀鉱山を掘り当てていた人々(例えば新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの父、ジョージ・ハーストなど)や、東部の銀行への債務に苦しむ中西部・西部の農民には債務軽減をもたらすということで支持を得ていました。このような民衆の世論に応える形でネブラスカ州選出の下院議員だったウィリアム・ジェニング・ブライアンは「我々は彼ら(金本位主義者)が、人類を金の十字架にはりつけにすることを拒否する。」という「クロス・オブ・ゴールド」演説で人気ををあげ、1896年、1900年、1908年と大統領選挙に民主党候補として出馬します。

こうしたアメリカ社会の動きを受けて、それまでは巷間の喧騒を避け、たとえばニューヨーク州のハドソン川河畔やロングアイランドの豪邸に上品に引きこもっていた資産家階級も、自らのエスタブリッシュメントとしての地位と資産を保全するためにアメリカ民主主義政治のアリーナにのりこんできます。

資産家階級の支持をうけ、資本家と都市部の市民を抱き込んだ政治勢力は国内においては金本位制度を固辞するとともに、対外的には積極的な拡大路線を歩み始めることになります。そして帝国主義の世界に漕ぎ出した新たなアメリカの帝国主義戦争は民衆の目を国内の政争からそらすことに一定の成功を収めます。

この時代背景の中で、アメリカ海軍学校の講師(のちに校長)のアルフレッド・マハンはその著作でアメリカ海軍の充実を図ることの重要性を主張し、カリブ海と太平洋の制海権を抑えることの重要性と、そのために補給基地となる植民地を獲得する政策を献策します。

また第2代大統領ジョン・アダムズの曾孫、第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズの孫であるブルックス・アダムズは、そのエッセーの中で中國の富を支配するものが最終的に世界を支配することになるであろうと予言します。

1896年の大統領選挙でウィリアム・ジェニング・ブライアンを倒して大統領に就いた第26代大統領ウィリアム・マッキンリーはマハンの戦略思想をそのまま実行に移し、ハワイを併合(1893年~1898年)。続いて植民地の自治・独立運動の対応に失敗していたスペインに目をつけ、ハバナ港に停泊中だったアメリカ海軍の戦艦メイン号の謎の爆発事件を口実に米西戦争(1898年)になだれ込みます。米西戦争はのちの大統領セオドア・ルーズベルトが組織した義勇兵たちのキューバでの大活躍が新聞を賑わすことになりますが、その裏でアメリカはプエルトリコを抑え、キューバに利権を確立し、太平洋ではグアムを占領、フィリピンにおいてはスペイン軍を追い払った後、フィリピン人反対勢力を凄惨な戦闘によって駆逐した上で傀儡政権を樹立させ、これを支配することになります。

米西戦争はアメリカとスペインの間で締結されたパリ条約にて決着がつきますが、この交渉で活躍したのがマッキンリー大統領の元で駐英アメリカ大使を勤め、条約交渉直前に国務長官に就任したジョン・ヘイです。リンカーンの秘書として世に出たヘイは、帝国主義勢力に豹変したアメリカの海外展開に驚くとともにアメリカの最終目標が中國であることを認識していたイギリスに対して、「フィリピンをドイツにとられるよりはいいでしょう」と丸めこみます。

アメリカ帝国主義の推進派にとって、米西戦争は3ヶ月ちょっとの戦闘で巨大な成果をもたらした大成功でしたが、その後のフィリピンの平定にてこずったこともあり、アメリカ国内では「反帝国主義運動」が沸き起こります。作家のマーク・トウェインはフィリピンで戦うアメリカ兵を「軍服を着た暗殺者たち」と呼び、「スペインの圧政から彼らを解放するはずだった我々は一体何をしているのだ。」と疑問を投げかけました。典型的に善良なアメリカ人だったトウェインなどには、中國に対する前進基地としてのフィリピンの重要性などという理由付けは到底受け入れられないものだったのです。また南北戦争の記憶がまだ生々しく残っていた当時の一般の大多数のアメリカ人にとって、よその国まで出かけて戦争を仕掛けてくるなどということは想像の範囲外のことだったのでしょう。日清戦争(1894~1895)の戦勝に湧き、「坂の上の雲」を目指して盛り上がっていた日本に比べて、アメリカの帝国主義者たちの手はアメリカの世論によって縛られていたのです。

アメリカとしては中國本土に進出する機会のないまま、イギリスはすでにアヘン戦争(1840~1842)で獲得した香港を基点に中國への影響圏を拡大しつつあり、第二次アヘン戦争(アロー戦争:1856~1860)ではイギリスにフランスも加わって首都北京のお膝元、天津の開港をもぎ取り、ロシアも同時に外満州を獲得します。そこに日本も加わって日清戦争で朝鮮半島に足がかりを得るばかりでなく、日清戦争後の三国干渉の結果、鉄血宰相ビスマルクの下に統一を果たした(1871年)新興国家ドイツも膠州湾を占領・租借してしまう始末(1897年)。

フィリピンで足踏みをしている間に中國というメインステージからしめだされてしまうこと恐れたヘイ国務長官は、1889年9月6日付で「門戸開放通牒(Open Door Note)」という一方的な通告をイギリス、ドイツ、ロシア、日本、イタリア、フランスに対して行います。通告の内容は、列強が中國に獲得した影響圏において、港へのアクセスや一方的な関税措置によって他の国を排除しないように求めるものでした。ようするにアメリカは「今こっちはちょっと出遅れているが、仲間はずれにすることは許さん。」と主張したわけです。

アメリカの一方的な外交のやりかたというのは、なにも最近のイラク、アフガニスタンに始まったわけではなく、この第一次門戸開放通牒がその嚆矢といえましょう。ヘイ国務長官は翌1900年3月20日には「通牒への反対はなかった」として、門戸開放政策が列強に受け入れられたものと一方的に宣言します。

しかしヘイ国務長官の心配の種は尽きません。1900年6月には列強の理不尽に堪忍袋の緒が切れた中國人民が「義和団の乱」を引き起こし、人民の蜂起は清国政府内の対外強硬派の支援を受けて駐北京列強外交団を包囲するにいたります。「北京の55日」という映画にもなったエピソードです。列強8カ国が義和団鎮圧と北京の外交団開放の為に派兵しますが、約5万弱の兵力の内20,000は日本兵、約12,000がロシア兵、10,000がイギリス兵でした。アメリカ軍も約3,000の兵士を送りますが、他に比べて見劣りする兵数はフィリピンの鎮圧戦が継続中であったことが足を引っぱった結果です。

そこでヘイ国務長官はまだ中國での戦闘が行われている1900年7月3日に、二度目の「第二次門戸開放通牒」を発表。第一次の内容を再確認することに加えて、義和団の乱鎮圧後も列強は清国政府に対して領土の割譲を要求しないことを求めます。

後日、アメリカの歴史家たちは「門戸開放政策」を「中國の列強による分割を防いだ」などと我田引水な自画自賛をしますが、ことの本質はさにあらず。ようするに「オレたちをおいて勝手に分け前をぶんどるなよ」ということが本音だったわけです。実際、「通牒」は清国政府などにはお構いなしにアメリカから一方的に発表されたわけですから、中國人こそいいツラの皮です。

しかし一見自分勝手にみえるアメリカの主張も、おたがいに疑心暗鬼になっている列強にとってはツボにはまった一手ではありました。八カ国連合のなかでもフランス、ドイツ、イタリア、オーストリア・ハンガリー帝国などの後続組は義和団の乱を通じて、日清戦争のように腐敗し切った清国政府だけを相手にするならいざ知らず、外国人を敵視し始めた中國人人民を敵に回して本国を離れた地球の裏側で軍事行動を起こすことがいかに困難かということを悟ります。そこで先発・近隣組ともいえるイギリス・日本・ロシアとの差を縮めてくれるアメリカの門戸開放の主張にタダ乗りすることは上策と言えました。

すでに中國においては他に水をあけた地位にいたイギリスにとっても、必要以上の地理的拡大競争は望むところではなく、新たに中國に参入する欧州列強の影響圏での自由貿易を保証してくれる「門戸開放政策」は歓迎すべき妥協点であり、イギリスはヘイ国務長官の方針を影ながら支援していました。親英派のヘイ国務長官としても、新規参入組のドイツ・フランス・ロシアに対抗する形で、イギリスに歩み寄りつつ中國でのアメリカの足場を築きたいと思っていたフシがあります。

しかし、ナポレオン戦争の終結以来、西はクリミア半島からイラン、アフガニスタン、インド北部辺境地帯にかけて南下するロシアを相手に「グレート・ゲーム」と呼ばれる小競り合いを続けていたイギリスとしては、アメリカ国民の反帝国主義気質に気兼ねしながら気長にロング・ゲームをプレイするアメリカよりも、満州から南下を目論むロシアに直接対峙していた日本を相手に日英同盟を締結する方針を前面に押し出します(1901年交渉開始、1902年締結)。

日英共同で南下するロシアに対抗するという構図は、幕末の対馬事件(1861年)以来の路線なのですが、対馬事件の直前、第二次阿片戦争の折に天津・渤海湾の周辺に停泊地を求めていたイギリス海軍のアーサー中尉が測量中に発見した湾岸地が、発見者の名をとって命名されたポート・アーサー。のちの旅順。今の大連市旅順口です。わずか40年余りの間に人知れぬ海辺の寒村だった場所が、日露両軍に3万人以上の戦死者を出させた一大要塞都市に変貌していたわけです。(ちなみに要塞建設にはドイツのクルップ社が関わっています。)この時代の激動ぶりを示す余談です。

かくしてヤキモキしたままのアメリカを尻目に、「一列談判破裂」して日露戦争が始まります(1904年2月8日~1905年9月5日)。

この間、マッキンリー大統領は暗殺者の弾丸に倒れ(1901年9月)、副大統領のセオドア・ルーズベルトが大統領に就任。ヘイ国務長官は新大統領に辞表を提出しますが受理されず、ルーズベルト大統領の慰留によって国務長官職にとどまります。エネルギッシュ(すぎた?)新大統領の下で、ヘイ国務長官はアメリカを大西洋・太平洋の覇者たらしめる次の一手として、パナマ運河開削への手立てをすすめます。アメリカが世界戦略の最重要拠点となる運河を独占することを警戒するイギリスを牽制しつつ、値段の折り合いに難色を示した現地のコロンビア政府を相手にパナマ地方に反乱を起こさせ、これを独立させて運河に着工する(1903年)という、かなりな荒技、剛腕ぶりを示します。

しかし元々心臓がよくなかったヘイ国務長官は激務に消耗。アメリカのために打った中國への楔の仕上げとして、日露戦争の調停役という役柄をルーズベルトのために用意し、1905年7月1日にニューハンプシャーの別荘で波乱の一生を終えます(享年66歳)。イリノイ州の片田舎の医師のセガレの身から出世し、仕えた大統領のうち3人(リンカーン、ガーフィールド、マッキンリー)が暗殺されるという、数奇な運命の持ち主でした。ハワイ併合、米西戦争、パナマ運河、対中國政策を通じてアメリカを太平洋を制する勢力となすことに大きな貢献を残したヘイですが、実際に太平洋を目にしたのは死の4年前、二期目の当選を果たしたマッキンリーと共に国内ツアーに出かけた1901年の夏にカリフォルニアに赴いたときの一回だけだったといいます。

ポーツマスで日露の手打ちの盃役を務めたアメリカは、この後中國における最大のライバルが日本であることを意識するようになります。案の定、第一次世界大戦でヨーロッパの列強が戦乱の嵐に飲み込まれると、このどさくさに日本は対華21カ条要求を出し、日露戦争後に満州で確立した利権を中國北部に伸ばそうと図ります。19世紀の終わりごろには元気だったヨーロッパ勢も本国の塹壕戦で手一杯なところ、彼らは一様に「勝手にしたら」という対応を見せますが、アメリカは猛反対。結局1917年の石井・ランシング協定で日本の要求とアメリカの「門戸開放政策」の妥協点を策定することで、このラウンドを終えます。

大戦の間の1921年、アメリカは次なる日本の中国進出に備え、アメリカにとっては目の上のたんこぶでしかない日英同盟を排除する外交努力を重ね、その努力は日・米・英・仏の四カ国同盟という形で成就し、日英同盟は更新されず失効します。その裏でアメリカは、対日戦争を想定したオレンジ計画の策定を始めていました(初立案は1919年)。

太平洋戦争開戦前夜の日米関係の状況は第一次大戦のそれに似ています。アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領にしてみれば、国内の孤立主義を唱える政治勢力により手を縛られている状況ですが、かといって欧州大戦のどさくさに再び日本の中國における影響力の伸長を見逃すわけにはいきません。そこでハル・ノートにいきつく日米のチキンレースになるわけです。この切所にあって日本のトップが、中國をめぐる日・米40年間の外交戦の歴史を俯瞰して判断する度量と頭脳に欠け、「英霊に申し訳が立たない」という浪花節論法を言い訳にして日中戦争のケリもつけられない有様であったのは日本の悲劇でした。

結果、チキンレースであったことを忘れた日本が清水の舞台から飛び降りて真珠湾を攻撃し、アメリカの参戦を待ちわびていたイギリスのチャーチル首相を大喜びさせることになるのです。

太平洋戦争に勝利した戦勝国アメリカは、ようやく日本を中國から排除し、衰退したヨーロッパ勢力も姿を消した中國を手にするはずだったのですが、対日戦争中はあれだけ応援して援助を施していた蒋介石と国民党政府の想像を絶するふがいなさにけつまづきます。そしてやっと国民として覚醒した中國人民がこともあろうに共産主義という殻に閉じこもってしまいます。世界支配を約束するはずだった中國経済という金の卵を産む鶏は、「造反有理」の毛沢東のせいで不妊症に陥ってしまう結果となりました。

その後、東西冷戦という不毛な時代を経るうちに、中國では鄧小平が実権を握り、遅まきながら金の卵を産み始めるようになります。読者のみなさんもご存知の通り、ここに至ってチャイナ・ブームが巻き起こり、アメリカも勇んで対中投資に励むようになります。ビジネス関係者たちは中國政府に代わり、互いに競っていかに中國が海外からの投資を歓迎しビジネス・フレンドリーな環境を育成しているかを喧伝するようになります。ブームはビジネス界だけには収まらず、アカデミアやジャーナリズムでも、中國の繁栄と覇権を予想するものでわきあふれました。ハーヴァード大の教授で保守系の論客であるファーガソン教授などは、アメリカと中國が手を携えて世界をリードしていく未来図を説き、気の早いことに「チャイナ」と「アメリカ」をくっつけた「チャイメリカ」などという造語を作ってそれを商標登録していたぐらいです。

そのかげで日本は「ジャパン・スルー」などという言葉をもてあそびつつ、自信喪失から自虐傾向に向かっていたわけです。

しかしアメリカの対中國投資も2000年代に入ってから頭打ちとなり、現在では減少傾向にあります。しかもその額はアメリカの対外投資中ベスト10にも入らないうちにピークアウトしている状態なのです(こちら参照)。

その理由はいろいろあると思いますが、中國国内の世情・政情の不安定や、法制度の不備などからくるいわゆるチャイナ・リスクが厳然として存在すること、また中國政府が国内産業の発展を促す目的で、海外資本の企業に対する規制の撤廃が当初の予想に反して進まないことなどがあげられます。しかしやはり一番の理由は、中國がアメリカ政府や企業相手に下手なサイバー攻撃を仕掛けることをやめないことや、南シナ海での行動などに代表されるように、あまりに無造作な安全保障リスクを体現しているからでしょう。

結果としてかつてはブームにのっかり親中スタンスを見せていたアメリカの政治家たちも、対中強硬スタンスをとらざるを得ない状況に追いやっているのです。

現在の中國の置かれた状況を中國の立場から考えれば、東西冷戦という構図の中でアメリカから幾度となく譲歩を勝ち取り、あれだけ派手に貿易摩擦を起こしながらも自国の繁栄を勝ち取った日本の幸運というものが羨ましく見えるのだろうなと、個人的には思うわけです。

ひるがえって日本としては、「同盟国」アメリカの協力を当然のものと思う油断は禁物だということがいえるでしょう。かつての「ジャパン・スルー」も、現在のアメリカの「アジアへのピヴォット」も、アメリカという国の国益に基づいて起きている現象だということを忘れてはいけないということです。もし将来、アメリカと中國がなかよく金の卵を分け合う関係になったとき、日本という国の立ち位置はどうなるかということを今から考えていても気が早すぎるということはないでしょう。前述したように、建国100年に満たない若いアメリカという国に生まれたブッルクス・アダムズは20世紀初頭に中國の重要性を指摘していたのですから。

オマケ
しかめっつらいオヤジの写真ばかりアップしたので、お口直しに。ジョン・ヘイとブッルクス・アダムズの実兄、ヘンリー・アダムズが恋の鞘当てをしていた、エリザベス(リジー)・シャーマン・キャメロン。当時アメリカ社交界きっての美女と言われた彼女はキャメロン上院議員の妻であり、また南北戦争の英雄、シャーマン将軍の姪でした。