私が中国古典を学ぶ内、染み付いてきた人生観が大きく五つあります。それは、①「天の存在」を信じる心、②「任天」「任運」という考え方、③自得――本当の自分をつかむ、④天命を悟る、⑤「信」「義」「仁」という倫理的価値観のベース、と拙著『君子を目指せ小人になるな』(致知出版社)にも夫々書きました。
此の二番目に挙げた「任天」「任運」とは、「天に任せる」「運に任せる」ということです。私はあらゆる判断に当たって、最終的には「任天・任運」という考え方を今までずっとしてきました。何か上手く行かないことがあったとしても、「之は天が判断したことだから、くよくよする必要なし」と考えるのです。之は、人生を良い方向に導くため大切な考え方だと思います。
但し、何も努力せずに天に任せたところで上手く行くはずもありません。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、人の人たる所以の道を貫き自分のやるべきを精一杯やった上で、天の判断に委ねるという考え方が大事なのです。たとえ自分の期待したような結果が出なかったとしても、何も恥ずることはありません。そこで尽くした努力によって、自分自身は間違いなく成長しているはずです。
『論語』の「顔淵第十二の五」に、「死生(しせい)命あり、富貴(ふうき)天に在り…生きるか死ぬかは運命によって定められ、富むか偉くなるかは天の配剤である」という子夏の言葉があります。「福禄寿」は誰もが望むところですが、所詮人知人力の及ぶ所ではありません。
物事が自分の希望通りに進んだならば「天の助けだ。有り難い」と謙虚になって感謝の念を抱き、逆に思うような結果が得られなければ「失敗ではない。この方が寧ろベターということなんだ」と考えれば良いのです。如何なる結果になろうとも最終的には、それが自分の天命だと思い天に任せるべきなのです。
之で誰かを恨んだりすることもありませんし、誰かに責任転嫁するような情けない真似をすることもありません。天がそれで良いと判断して齎された結果であり導いてくれた方向だと思えば納得でき、余計なストレスを溜めずして常に前向きに行動できるのです。
そもそも自分の希望が叶ったからと言って、それが本当に良い結果か否かは誰一人として分かりません。二つの人生を同時に生きられれば比較することも出来ましょうが、人は一つの人生しか生きられません。「禍福は糾える縄の如し」「人間万事塞翁が馬」というように、何が禍になり何が福になるかは中々わからないものなのです。
人生には幸もあれば不幸もあり、幸かと思えばそれが災いに転ずることもあり、失敗が成功の基になることもあれば、その逆もあるわけです。起きた物事に一喜一憂して神経をすり減らすのは、余りにも勿体ないと思います。
森信三先生は、「自分に起こるすべてのことは最善であると思いなさい」と言われています。先生の言葉で言えば「最善観(オプティミズム)」とは、「神はこの世界を最善につくり給うた(中略)すなわち神はその考え得るあらゆる世界のうちで、最上のプランによって作られたのがこの世界だ」という見方をするものです。
それ故この世に起こる様々な悪や不幸な出来事、あるいは自分にとってためにならないと思える事柄であっても、全知全能の神の眼から見れば、夫々に有意義であるという考え方が出てくるのです。そして此の「最善観」は、「任天・任運」という東洋の思想とも相通ずるものでありましょう。
之は、我々が生きて行くプロセスで起こり来る様々な困難、苦難に対して前向きに立ち向かうべく、勇気を与えてくれる考え方であり言葉だと思います。我が身に降りかかる事柄はすべてこれを天の命として慎んでお受けする──之が我々にとっては最善の人生態度だということなのです。
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