「真田丸」への勝手な期待

新田さんのエントリー記事の二番煎じ、と言いますよりはカストリのようで恐縮ですが、御免被って一筆啓上いたします。

来年のNHK大河ドラマが真田信繁(幸村)を主人公にした「真田丸」、脚本を手掛けるのがあの三谷幸喜氏と聞いて、あいかわらずテレビのない生活を続ける私も嬉しくなってしまいました。

なにが嬉しいって、いの一番には一般には通用している「幸村」ではなく、「信繁」という本名のほうを強調してくれているところです。ご存知の人は知っているでしょうが、「真田幸村」という名前は後世江戸時代の講談・軍記物から発生した呼び名で、本人が生きている間は「信繁」で通しています。

「信繁」の名は父・真田昌幸がそのそば近くに仕えた武田信玄(晴信)の同母弟、左馬頭(典厩)信繁の名に通じています。信玄の右腕として武田氏の信濃攻略の先鋒として活躍し、川中島で戦死(1561年)した人物の名前を自らの次男に名のらせた父・昌幸の気持ちを推察してあげれば、武田の武威を自らが継いで立とうとした信州の素寒貧田舎大名の心意気がまざまざと思い起こされると思うのですが、いかがでしょうか。

1年間という長丁場の大河ドラマなので、大坂冬・夏の陣(1614・1615年)での真田信繁の活躍のみならず、父・昌幸を頂点とする真田家の家族ドラマをやることになると思うのですが、この切り口はすでに池波正太郎さんの筆による「真田太平記」という名作があり、すでにNHKによりドラマ化されています(1985年~1986年)。この先行のTVドラマでは、故丹波哲郎さんが昌幸を怪演したのですが、同じドラマで幸村役を演じた草刈正雄さんが、今回は昌幸を演るというのも、ファンとしてはうれしい符牒です。丹波さんも「死後の世界」で大いに楽しみにしていることでしょう。

とにもかくにも、池波正太郎という「ヤマ」を三谷さんがどう乗り越えていくのか、とても楽しみです。

「真田太平記」は、1582年、真田家にとっては主家であった武田家が織田・徳川勢のてによって滅亡するところから書き起こされ、その数ヶ月後には本能寺の変が勃発し、天下がてんやわんやの状態になるというドラマチックな時代背景から始まるのですが、個人的には今回の「真田丸」にはもうひと昔前からストーリーを起こして欲しいと勝手に期待しています。

父・信玄の遺言に背き、周辺諸国に積極的に攻勢をかけた武田勝頼は、長篠の戦い(1575年)に敗れた後も攻め手を緩めず、1579年から1年がかりで小田原北条氏が所領していた上州沼田城を攻略します。この方面の作戦を担当していたのが真田昌幸です。真田の本拠地であった信州小県(現在の長野県上田市)から、今ではラグビーの夏合宿のメッカとして有名な菅平高原を横に見つつ、鳥居峠で分水嶺を越え、吾妻川渓谷を経て利根川水系につながる沼田までの道をいったりきたりしながら、昌幸は地侍たちを籠絡・調略・謀殺しつつこれを成し遂げます。この折に見せたゴッドファーザーばりの手際のすざまじさが、後の戦国大名としての昌幸の自信、そして沼田という因縁の地への妄執につながっているように私には思えるのです。草刈さんには是非この土臭い「汚れた英雄」(年がバレるな...)を演って欲しい。

吾妻側渓谷も八ッ場ダムの底に沈む前に、少しは観光需要の喚起になってくれるのではないでしょうか。

また昌幸が上田に本拠を構え、信州の戦国大名となる次第の詳細も「真田丸」に期待するところです。「真田太平記」では、武田家滅亡後、進駐してきた織田勢力も本能寺の変で引き上げてしまい、軍事的に真空地域となった信州に昌幸が当然のごとく戦国大名として君臨してしまうのですが、実際にはいろいろあったようです。

私が愛読する「武将列伝」の真田昌幸の章で、海音寺潮五郎さんは次のように書いています。

その頃、こういうことがあった。

六月十二日は、海野郷の白鳥明神の祭礼日だ。これは滋野一族の氏神であるが、近郷近在に尊崇されているので、その祭礼は大へん賑わうのである。とりわけその年は四月に武田家が亡んだあと、信長の武田家の旧臣らに対する仕置きが苛酷をきわめ、捕らえられて死罪に処せられるものが多かったので、小県や佐久の地士らは皆かくれ忍んでいたのであるが、信長が京都で殺されたといううわさを聞き、皆はじめて天日を仰ぐ気持ちで集まったので、大へんな賑わいとなった。

地士らは神前に集まって酒をのみ、唄をうたい、踊りなどおどって、解放のよろこびを楽しんでいたが、そのうち、一人がこう言い出した。
「織田右府が死んだ以上、天下は近いうちに必ず大いに変わるであろう。その時こそ、われらも再び人がましい身分になれるわけであるが、大将と仰ぐべき人がいんでは、皆の心がバラバラで、大事をなすことは出来ん。そうじゃろう。」
「うん、そりゃそうじゃ」
「じゃによって、この中から誰ぞ一人えらんで、それを大将と仰いで仕えるというのは、どうじゃろうのう」
「よかろう」
「よい思案じゃ」
皆賛成して、誰はどうじゃ、うんにゃ、誰の方がよいぞ、などと言っていると、昌幸のいとこ常田図書が発言した。
「おたがい似たりよったりのものじゃ。誰を大将にしてもさして変わりはせん。どうじゃろう。おれを大将にしてくれんか。ずいぶん働くぞ」
人々は言った。
「せっかくおぬしが望むのじゃから、してやってもよいようなものじゃが、おぬしの家老何某は高慢なやつじゃによって、もしおぬしを大将にしたら、やつが威張って始末におえまい。あきらめてもらおう」
クジ引きがよい、入れ札がよいと、色々な意見が出ているうち、ひたいを合わせてひそひそと語り合っていた年輩の連中数人の中から一人が発言した。
「ちょいと静まってくれい。いい考えが出た。上州の岩櫃城におられる真田安房守殿はどうであろう。安房守殿は当地の領主でもあり、義勇知略の人として、武田家でも名うての人であった。われらが大将と仰いで恥ずかしからぬお人であると思うが、どうであろうか」
「よかろう、よかろう」
「安房守殿とは思いおよばなんだな」
「よい段ではない」
と、直ちに衆議一決して、代表者を立てて岩櫃におくった。昌幸はこれを快諾し、この人々の言うままに小県郡戸石の城に移って、人々と主従の約を結んだという。以上は土塊鑑という書物から引いて上田市史に記載してあることで、編者は当時の形勢から推して事実であったろうとしている。ぼくもまた事実であったろうと思う。信長の死によって解放のよろこびのために産土神の祭礼に集まって酒宴をひらいて楽しむ様子に、当時の地士の生態が活写されているという点からも、この記録は珍重すべきである。

なお想像をたくましくするならば、ここへ至る段取りは、前もって昌幸がつけたのかも知れない。それくらいのことはしかねまじい昌幸である。

このシーン、是非「真田丸」で演ってほしいです。

以前の「新撰組!」もそうでしたが、三谷さんはご自身の小劇団での「梁山泊」的な経験を下敷きに、いろいろなキャラクターが、さまざまな思惑をもって、それぞれにストーリーに関わってくる人間模様を描くことを得意にされていますので、こうした信州地士たちを活写することができるのではないかな、と期待するわけです。

最後に我田引水なことを書きますが、私の「矢澤」という名字も真田ゆかりの名前です。記録に残るところでは、昌幸の父、幸隆の弟、綱頼(または頼綱)が、現在も上田市の字として残る矢澤の地に本拠を構えたところを祖としているようです。信繁(幸村)にとっては大叔父に当たるわけです。

子供の頃は、こうした「ご先祖様神話」を眉ツバで聞いていましたが、私の実家がある東京都葛飾区亀有(いまではあのマンガの方で有名になってしまいましたが)には、「矢澤」のほかにも、信州ゆかりの「滋田」や「鞠子」といった名字の旧家が多く残っていました。江戸時代初期に利根川下流域の沼沢地であったこの地に落ち着いたご先祖様は、上流の沼田から川を下ってやってきて帰農した、真田家家臣団の一群だったのでしょう。