「尊敬される日本とはどのような国だと思いますか」という問いに対し、JR東日本相談役の大塚陸毅さんは「生活の質を磨くことで尊敬される国になれる」等と主張されているようです。当該質問に対し私見を申し上げるとすれば、やはり国民全体の質が高まって初めて世界に尊敬されるのだと思います。
四書五経の一つに数えられる中国の古典『大学』に「修身、斉家(せいか)、治国、平天下(へいてんか)…身修まりて後、家斉(ととの)う。家斉いて後、国治まる。国治まりて後、天下平らかなり」という言葉があります。これ即ち、天下泰平を齎す一番基本になるものは「身を修める」ことだというのであり、先ずは国民一人一人が絶えず人間力を高めるべく学び続け、自らを磨いて行かねばならないのです。
「あの国は良いなぁ」と思う時、そこには尊敬される民があります。江戸時代など昔の日本を訪れた外国人達は、日本人の礼儀正しさや謙虚さ、立ち居振る舞いに驚きました。日本ほどの文明国は無い、と本国に報告した人もいます。人間の本質というのは、そういった礼儀作法や立ち居振る舞い、言葉遣い等に表れるものです。嘗ての日本人は人間学を勉強していたが故、礼が素晴らしく出来ていたわけです。武士だけでなく農民でも漁師でもそういうことが、きちっと出来ていたのです。
要するに、そういうことさえしっかり出来たらば「四海(しかい)の内(うち)は皆(みな)兄弟(けいてい)」(顔淵第十二の五)、世界中の人が皆兄弟になり何処の国に行っても、それで十分通用するわけです。孔子は「言忠信(げんちゅうしん)、行篤敬(こうとくけい)なれば、蛮貊(ばんぱく)の邦(くに)と雖(いえど)も行われん」(衛霊公第十五の六)、つまり「言葉が誠実であって、立ち居振る舞いがしっかりしていれば、何処へ行っても通用しますよ」と言っていますが、之は正にその通りだと思います。
私自身も過去100か国以上の国をまわり10年間海外に住んだ経験がありますが、つくづく実感したのは結局文化は違っても本質的な人間性は変わらないということ。英語で言えば“Human nature does not change.”です。「きちんとしているな」という人もいれば、「駄目だなぁ」と思う人もいます。だから基本的な礼が出来ている人に対しては、「この人は中々立派だ」と国違えども分かるはずです。分かる人には分かるのであって、最後に残るは人間性がどうなのか、その一点だということです。
また更に言うと私は、人に人命があるように国には国命があると思っています。国命とは、その国の中にいる国民が総体として受けている命であって、それは日本人なら日本人の歴史と伝統の中に語られているはずのものです。日本が世界から尊敬される国になろうとしたらば、日本の歴史・伝統の上に如何なる国民性・特質を有しているかを明らかにし、その特質を益々磨いて行くという点で評価を得ねば意味がないと思います。
歴史を遡って日本は一体どのような国か、日本人とは一体如何なる民族かという「ナショナル・アイデンティティ」を国民共通の中核的基盤として確立しつつ、その民族が世界的文脈においてどういう「ナショナル・ミッション(国民的使命)」を有しているかにつき、「ナショナル・トラディッション(国民的伝統)」及び「ナショナル・インタレスト(国益)」を見極め、それらを常に意識して行かねばならないのです。
私は、そのようなことが出来て初めて世界から「尊敬される日本」になると考えており、日本が真にグローバルな国になろうとするならば、それは日本が長い間培ってきた精神文化を捨て去るのでなく、寧ろその精神文化を世界の平和や発展に寄与させるべく努めるべきでしょう。
大事なことは、正に日本のナショナルヒストリーを知った上で日本人や日本という国、あるいは日本文化といった日本的特質を深く理解し、日本人としてどのような主張をして行くのかということです。そしてその主張を行う前に、やはり世界に視野を広げて相手国の事柄を十分に理解し得るような教養というものを身に付けなくてはなりません。
このようにグローバルな人物とは、十分な英語力や世界レベルの専門性を持つだけでなく、より基本的には自国と相手国に対する広く深い教養が求められます。更に掘り下げて述べるならば、その人物が如何なる人生観・世界観といったものを有しているのかに尽きるのです。
そのようなものを十分に持たない人間はたとえ英語力等に長けていたとしても、グローバルに何も通用しないとは当ブログでも常々指摘してきた通りです。我々はそれこそが重要なポイントであると確りと認識すべきだと思います。
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