反原連の片付けを終えてSEALDs抗議に行ったら、福岡の大学生がスピーチ中。「もし本当に中国や韓国が攻めてくるというのなら、僕が九州の玄関口で、とことん話して、酒を飲んで、遊んで、食い止めます。それが本当の抑止力でしょう?」真理だ。 pic.twitter.com/2uBOlERUrj
— てんこ (@Nority_for_two) 2015, 8月 28
このツイートがお笑いネタとして話題になって、Togetterにもまとめられている。きのうは国会前でデモがあったらしいが、こんな学生が何万人集まっても政権はビクともしない。
50年代の全面講和運動は政治的には敗退したが、こうした「平和勢力」の圧力が、吉田首相が再軍備をしなかった一つの原因だった。憲法問題研究会は、岸内閣の憲法調査会をつぶした。当時と今は何が違うのだろうか。
- 反対運動の中核は、当時の指導的な知識人だった。宮沢俊義は新憲法の草案を起草し、南原繁は憲法制定議会に貴族院議員として出席した。彼らの意見は単なる学問的見解ではなく、政治的な重みをもっていた。
- 社会党などの護憲勢力が国会の半数近く、政権をとる可能性もあった。彼らは自民党の反共路線に対して、社会主義陣営と友好関係を結ぶという対案をもっていた。
- 当時はまだ岸信介のような戦犯容疑者が政権の中枢にいて、明治憲法に戻そうという意向をもっていた。憲法問題研究会が重視したのは、第9条よりも第1条(国民主権)だった。
このうち今回のデモには、1に相当する国際政治学者などの専門家は見当たらない。反対しているのは(特殊なバイアスのかかった)憲法学者だけだ。2の条件も、今はない。与党が衆議院の2/3を占め、あとは万年野党ばかりだ。
最大の違いは3だ。戦争の責任者に憲法改正をさせるのは危険だという危惧は、吉田茂や宮沢喜一ももっていた。彼らも第9条はいずれ改正する必要があるが、まだ時期尚早だと考えていた。今では戦争を体験した世代が少数派だ。
ただし今の自民党案は党内でも評判が悪く、このまま実現するとは思えない。民主党や維新が一時いっていたように、野党の側から対案を出せばいいのだ。憲法改正派も時代錯誤だが、反対派の脳内時計は60年安保から止まったままなのではないか。