幕末に似る「戦さ嫌いの日本人」

江藤淳氏の「海は甦る 第一部」(文芸春秋)に、徳川幕府の海軍伝習所の教官を勤めたオランダの海軍艦長、カッテンディーケ大尉に、こんなエピソードがある。
 
同大尉が長崎の商人に「この町が脅かされたとき、どうして防衛するつもりか」と質問した。すると、くだんの商人は「そんなことは、われわれ商人風情の知ったことではございませぬ。戦はお上のなさることでございます」と答えてケロリとしていた。

商人だけではない。武士の間にも「いったん緩急の場合に、祖国防衛のために、力をあわせねばならぬという義務」の観念が、奇妙に欠如していると、カッテンディーケは観察していた。そこで、彼は思った。

もしここに、一名の仕官と四十五人の陸戦隊があれば、恐らく一砲をはなつことなく……町を占領できるに違いない。市民は、商人の言葉が事実なら、幕府の防衛体制になんら協力しないにちがいないからである。

前回の拙ブログ「政治の要諦は『うまくやること』」で、こう記した。

(多くの日本人の)望みは自分たちが危険にさらされず、米国のような強い国に守っていられる状態が半永久的に続くこと。そうなるように、政治家は「うまくやってほしい」ということに尽きる。誠に正直で、自然な感情である。安保法制への不人気とそんな不安な政治に突き進む安倍政権の支持率が下がるのも当然だ。無党派層が(久しい以前から)最大なのも、「政権はだれでも良い。うまくやってくれればいい」と思っている有権者が多いことを示している。

上記のエピソードを読むと、この日本人の精神構造は江戸時代以来のことらしい。江戸250年の太平が日本人を戦さ嫌いの平和愛好民族にしてしまった。同様に戦後70年の太平が、日本を取り巻く危険な状況に対する無頓着を生んでしまった。

いや、戦さのなかった平安時代400年を思うと、日本人のDNAには強い戦争否定の因子が刻み込まれているのかも知れない。

そうした穏やかな性格が好ましいことは間違いない。だが、「戦さはお上がすること(現状では米国が日本を守る)」とのみ考え、自分は一切、戦わないと知らん顔の日本人が大勢を占めたら、どうなるか。

カッテンディーケの言うように、わずかな手勢で町(長崎)を、そして日本列島全体をやすやすと占領できるに違いない。

幸い、幕末の日本には、カッテンディーケの尊敬した勝海舟(海軍伝習所頭取)が幕府に、薩長など諸藩には維新の志士がいて、彼らの活躍を軸に日本は何とか独立を保つことができた。

同様に、今の日本にも危機感を感ずる人々は存在し、それが安倍政権を支え、安保法制を何とか成立させた。

日本の現状を、欧米列強の侵略著しい幕末になぞらえるのは大げさかも知れない。だが、東アジアにおける米軍事力の減退と中国の脅威の拡大、北朝鮮の核武装を考えると、戦後70年の「太平」に大きな変化が生じているのは間違いあるまい。

安保法制の整備はやはり必要なのである。