国が金を出して若い人達に教育を施す目的は色々あろうが、「民主主義体制下での良き有権者を育成する」事は、間違いなくその大きな目的の一つであろう。
国会議員を選び、最高裁判所の判事の適格性を審査し、個々の政策に対しても色々な方法で意見を表明する事、これが、民主主義国家である日本において、一定の年齢に達した全ての国民に等しく与えられた「主権」だ。従って、その「主権」を持つ国民の一人一人が、「多くの情報をよく分析し、自分の頭でよく考えた上で、筋の通った判断を出来るようにする」事、具体的には「その為に必要な基本的能力を身につける」事こそが、日本の将来の運命を決めると言っても過言ではない。
民主主義がともすれば「衆愚政治」を招きかねないことは、遠い昔のギリシャの哲人達がすでに見抜いていた。この為、「民主政治」より「哲人政治」の方が良いという考えも当時はかなり強かった。(これは、現代の「強欲で利己主義的な個々の人間より、コンピューターに判断させた方が良い事も数多くある」という考えに似ている。)
「発展途上国が急速に経済力をつける為には、基本的人権はある程度犠牲にしてでも強権政治を行い、国民の生活水準が一定レベルに達してから徐々に民主主義に移行した方が良い(そうでないと選挙での買収が日常茶飯事になる)」と考えている人達も、今尚かなりいるだろう。韓国や台湾の成功はある程度これ故だったところがあるし、現在の中国も、明らかにそう考えているかのようだ。
しかし、現代の日本は既に成熟した民主主義国であり、もはや「脱民主主義」を考える人はいないだろう。そうであれば、何としてでも衆愚政治を防ぐ方法に意を尽くすしかない。
多くの国民が「少し考えれば実現不可能な事がすぐ分かる様な甘い約束」を無邪気に信じたり、或いは「単純で扇動的な言葉」に短絡的に反応して興奮してしまったりする様だと、パーフォーマンス志向の「政治家」やアジテーションの巧みな「社会活動家」に好きな様に利用され、気がついた時には「時の政府がとんでもない政策を遂行している」という事にもなりかねない。それを防ぐ為には、国民が政治に関心をも落ち、容易に騙されないようにする事が何よりも肝要だ。
今、先ずやるべきことは、今後選挙権を持つことになる高校生に対する「政治教育」だ。「政治教育」というと、多くの国では「政府の考える方向に国民の思考を誘導する」為の教育を意味するが、成熟した民主主義国の日本では、むしろその正反対でなければならない。
それは、一言で言えば、国民に「批判力」と「判断力」をもたせる教育だ。「あらかじめ決められた結論に誘導する」のではなく、「見落としがあればそれを指摘し」「色々な異なった考え方があることを示して、短絡的な結論付けを牽制し」「自分の頭で徹底的に考えさせる」事を眼目にしなければならない。
高校生達がこの基本をしっかりと身につければ、年長者達もその影響を受ける。誰でも高校生達に簡単に論破されたり、馬鹿にされたりするのは嫌だろうからだ。従って、これは「普通の大人達の政治意識を高める」為にも役立つ。だから、この為必要な「教育コスト」を国が多少使っても、「これは自分達を破滅的な将来から救うに必要な投資なのだから」と考え、多くの納税者は納得してくれるだろう。
とは言っても、別に大して金がかかる事ではない。具体的にやるべきことは、下記の事ぐらいしかない。
1)「この為の犠牲になる他の教科」を慎重に選ぶ事。
2)大学受験と何等かの紐付けをし、生徒にインセンティブを与える事。
3)目標と指導要領を正しく明確に規定する事。
4)指導できる教員を養成し、その適否を査定するシステムを作る事。
5)教材ビデオや、情報アクセスの為のタブレット等の機材を整備する事。
方法としては、数々のテーマを定めて、生徒達に自由にディベートさせる事だ。先生の役割は、全体の流れをマネージし、時には助け舟を出し、時には見逃している論点を指摘し、最後に総括を行う事だけである。
仮に一クラスが40人だったとすれば、これを5人ずつの8つのチームに分け、一回のサイクルを3ヶ月と定めて、4つのテーマについてそれぞれ紅白で議論を戦わせる。二つの対立する主張はあらかじめ定め、「紅白の何れのチームがどちらの主張を展開するか」は「籤引き」で決める。一つのテーマについて、紅白両チームがそれぞれに意見を発表し、それを巡って論争を戦わせている時、他のチームのメンバーは「審判(陪審員)」の役割を果たす。一つのサイクルが終了すれば、その都度チームの構成を変更する。
「籤引き」の結果次第では、「自分の考えとは正反対の考え」をサポーする為の論理を考えなければならない事など、今の若い人達にとっては驚天動地の経験だろうが、これこそが、相手の立場を理解しようとする姿勢を涵養し、物事を多角的に見る訓練となる。また、将来、彼等が自分達の主張に説得性を持たそうとする時には、必ずこの経験が大きく役に立つ事になるのは間違いない。
ディベートのテーマには「安全保障政策」とか「消費税問題」とか「原発再起動」とかいった、現時点で大きな政治問題となっている「重いテーマ」は選ばない。こういうテーマを対象にすれば、背景となる事実関係を勉強するだけでも膨大な時間を必要とするし、周辺の人達の政治的思惑でもみくちゃにされるので、教育の場で取り上げるにはふさわしくないからだ。
(高校生といえども、意識の高い人達は「こういう問題こそを議論したい」と思うだろうが、それはどうせ大人達がやっていることだから、議論したければそこに参加すればよい。)
それではどういうテーマがよいかといえば、「歴史上の問題」や、「毎日の校内生活や社会生活に密着した問題」で、「思想的な対立が先鋭化して激しい議論になるような可能性の少ないもの」を選ぶべきだ。
歴史上の問題では、例えば、「元寇の役に際して北条時宗は蒙古の使者を斬り捨てたが、これは是だったか非だったか」とか「日露戦争後に締結されたポーツマス条約に関しては、新聞や大衆は政府の弱腰を激しく非難したが、この非難は妥当だったか否か」とかいったテーマがよいだろう。但し、「このような歴史的なテーマについては、むしろ歴史の授業の中にディベートをとりいれて議論させるべし」という考えがあるなら、むしろその方が良いかもしれない。
もしも「これから取り入れられようとしている近代史の授業」の中でテーマを選ぶとするなら、「大戦後のサンフランシスコ平和条約締結の前には、ソ連を筆頭とする東側諸国までいれた『全面講和』か、東側諸国との講和は後回しにすると割り切った『単独講和』かで、国論は二分されたが、どちらが正しかったか」といった程度のテーマは、思想的な軋轢があっても、恐れずに取り入れていくべきだろう。「フォークランド諸島を巡る英国とアルゼンチンの戦争」なども、日本には直接関係のなかった事だけに、絶好のディベートのテーマになるだろう。
日常の問題や社会問題なら、「騒音を巡ってのアパートの住人の間でのトラブル」とか「いじめ問題」とか「休耕地の有効利用」とか色々あるだろう。「イルカの追い込み漁は是か否か」などもテーマにして良いと思う。生徒達にとってもっと身近な「具体的な幾つかの校則の是非」や「学校へのスマホの持ち込みの可否」などといったテーマにも踏み込んでもよいと思う。
取り敢えずは随分と雑駁な議論になってしまって申し訳なかったが、私がこの問題に対して特に強い思い入れを持っているのには、それなりの理由がある。Twitter等でやり取りをしていると、若い人達の論争能力があまりに低い事がとても心配になるからだ。「議論に最低限必要な基本プロトコールも殆ど理解出来ておらず、従って議論が噛み合わないと、すぐに見当外れな「罵倒」に走ってしまう」という姿を見ていると、「この人達が持つ一票で決められる日本の将来」が心配にならざるを得ない。
近年は、インターネットが日常生活の中核になりつつあり、就中、SNS(ソシアル・ネットワーク・サービス)と呼ばれる新しいコミュニケーションが急速に伸びているが、これには光と影がある。
ネットを多用する人達は、一様に「読んだ短文に対して短文で返す」事がとても素早い。慣れない人はとても追いついていけない程だ。これは、疑いもなく「今後の社会で効率良く仕事をこなし、スムーズに社会生活を営んでいく上での一つの重要な能力」なのだが、「物事を色々な角度から見て、じっくり考える」とか「論理的構成をよく考えた文章を書く」などの能力を涵養する上では、むしろマイナスに働く。「いつもメールが気になり、一種の中毒症状に陥って、余裕を持った生活が送れなくなる」といった問題も、徐々にクローズアップされつつある。
今回の記事で訴えた「高校におけるディベート教育の必要性」の議論には、「これらの問題に対する処方箋としての効用」という側面も意識されている事を、お読み取り頂ければ有難い。