「研究機関としての大学」の抜本的な改革

「自然科学」と「人文・社会科学」

ノーベル賞を受賞したニュートリノの話などを聞いていると、自然科学の発展の凄さを痛感する。率直に言って、私などは「何が語られているのかが、漸く朧げに分かる」程度。ここまで来るには、気の遠くなる様な努力がそれぞれに積み重ねられていて、それが相互に関連し合い、刺激を与えあってきたのだと思うし、「理論物理学」での成果が「技術」を生み、その「技術」が高度な実験機材の製作を可能にしたという事もあるだろう。



さて、それでは、人文科学や社会科学の分野ではどうだろうか? 現在議会で行われている政治家の討論などを聞くと、数千年前の古代ギリシャの議場での議論とあまり変わらないというか、むしろ劣化しているのではないかとさえ思える。更に、この分野での研究の積み上げの成果が、実際の政治や経済運営にどのような影響を与えたかを考えてみると、ここでも殆ど役に立った形跡がない事が分かる。第一次世界大戦で相当懲りたにもかかわらず、第二次世界大戦を防げず、今もなお、世界の各地で暴力的な対立や紛争が続いている。

自然科学では、「自然現象を観察する事によって得られた客観的なデータ」をベースにした「比較的単純明快な、必然性と蓋然性に従った推論(仮説)」が、全ての基本になる。この仮説は、その後の数々の実験で立証される確率が高く、ここで実証されれば、何人もそれに逆らうのは困難となる。従って、研究者は、無駄な議論を何時までも繰り返す事も、同じところを何度も堂々巡りする事もなく、どんどん次に進める。

しかし、人文科学や社会科学となると、主役は人間となり、人間は複雑で、その思考や行動のパターンが一律ではない。従って、推論が難しい上に、実験が不可能なので、推論の実証に極めて長い時間がかかり、なお実証されたとは言い難い状況に止まらざるを得ない。人文科学や社会科学の分野での唯一の実証は「歴史」であるから、世界の「歴史」の研究はもっと組織的且つ精力的になされて然るべきだと思うのだが、実際には、「歴史」は各国の時の権力者が自分の地位を保全する為に利用される事が多いので、純粋な研究が方々で阻まれているようだ。

「研究」か「教育」か
さて、今日の記事の主題は「大学のあり方について」なので、話をそこに戻そう。そもそも、現在の「大学」自体も「歴史の産物」であって、「現在の社会が求めているものから抽出された理念の結晶」ではない。明治維新の一環として大学が設立された時には、それなりの理念があったのだが、現在の状況には明らかに即していない。

しかし、諸外国に比べ対GDP比率としては極めて少ないとはいえ、国も相当額の予算をつぎ込み、多くの人達がこの中で膨大な時間を費やしている「大学」というものが、そんなにいい加減なものであって良いとはとても思えない。現在の大学は、兎に角「理想とは程遠い」状態だと思うので、待ったなしで改革をする事が必要だ。

先ずはっきりさせなければならないのは、大学は「教育」をする場所か「研究」をする場所かという事だ。私は理工系の現状についてはあまり知らないので、見当外れな見方が多いかもしれず、それはそれでご批判頂きたいが、私の見るところでは、この境界線はかなり曖昧だと思う。もし境界線が曖昧なら、両者共に不効率になっている筈だ。

現在の実態は、教授、准教授をはじめとする「職員」にはその両方が求められているのに対し、学生は主として授業を受ける立場で、「時折研究の手伝いもさせられる」というところではないだろうか? それならそれで、そういう認識の上に立って、「研究」と「教育」の両面のあるべき姿を個別に考えるべきだろう。

「研究」はどうあるべきか?
「研究」の受益者は誰かと考えれば、

1)研究者自身(好きな研究に打ち込んで生計が立てられる。場合によれば、社会に大きな貢献ができ、歴史に名を刻める。)
2)企業(基礎研究等を大学等でしっかりやっておいて貰えると、その成果をベースにして、自社の為になる研究開発に自社の技術者を専念させられるので有難い。)
3)国(国の知的水準を高める事により、他国の尊敬と信頼を勝ち得る事が出来る上に、自国の産業も間接的に助ける事が出来る。社会科学系の研究は、自国の法制度を整えたり、経済政策に遺漏なきを期したりする為に利用できる。)
4)学生(将来の進路の一つの選択肢として、研究の狙いと実態を間近に見る事ができる。)

という事になろう。

このような研究者が大学に所属するべきか、独立した国立の研究所などに所属すべきかは、どちらでもいい問題だ。大学に所属する場合、余技で学生達に教える事はあってもよいが、面倒なら忌避してもよいという事にすべきだ。一方、学生に研究の手助けをさせる事はあって然るべきだ。学生達にとっても、これは良い経験になるだろう。

芸術の世界では、モーツアルト等が活躍した時代から現在に至るまで、若い人達に教えるのが芸術家の最も大きい収入源になってきている。モーツアルト等は幾多の名作オペラを書き下ろし、ウイーンの劇場で大喝采を受けたものの、これから得られる収入は僅かなもので、素行が怪しげだった為に貴族の女性達の家庭教師になる道が閉ざされた為に、いつも貧乏に苛まれていたと聞く。

しかし、物理学者や経済学者は家庭教師では収入は得られない。大学の授業料では大した金は取れないし、「自分の書いた本を読まないと単位が取れない仕組みを作って、自著を高値で学生に売る」というビジネスモデルも、あまり感心すべき事ではない。結局は、色々なコネを使って自ら走り回り、国や企業から研究費を取ってくる教授や准教授が、学内でも幅を利かす事になっているというのが実態の様だ。この状況をあえて潰す必要はないが、これで十分とはとても思えない。

必要な改革案
先ず、国としては、国が重要だと考える研究に従事している有能な学者に対しては、諸外国の大学に負けないくらいの十分な報酬を支払うべきだし、研究施設を充実させる資金も十分に拠出すべきだ。また、大学の運営の形も大幅に見直すべきだ。現在のシステムだと、教授会が全てを決め、誰が次に教授になれるかも、教授会に所属するボス達が決めるので、ここに極めて封鎖的な親分子分システムができているように見受けられる。「原子力ムラ」の問題は散々批判されたが、同じような状況は至る所にあると聞く。

教授会は諮問委員会として残ってもよいが、大学の経営(当然人事を含む)は経営のプロに委ねるべきだ。プロとしての経営者には、オープンで公明正大なやり方で個々の研究者の活動を支えるだけでなく、「戦略的な考え」に基づいて研究対象を選択せねばならない。(現在のやり方では、先任の教授が自分の得意な分野に対象を絞るので、対象がどんどん陳腐化していく恐れがある。)

それだけではない。組織としての効率を高め、適切な目標管理(予算管理)を遂行していく事も、プロの経営者に期待される大きな仕事だ。例えば、私自身がある大学でつぶさに見聞した事だが、同じような研究所がそれぞれのボスの意向で学内に数箇所あり、色々な重複がある上に、規模の利益が全く取れていないという状態が平然と放置されている。こんな事は、一般の企業ならすぐにメスが入れられる事だが、大学ではボスの意向に従うのが第一と考えられている為か、そんな徴候は全く見られない。この一事を見ても、「これまでの慣習を打ち破って、新しい手法を導入していく」事が今こそ必要であり、各大学はこういう手法でも競い合うべきだと強く思う。

「目標管理」と「予算管理」
各研究ユニットの予算は、自然科学系では、研究対象によって大規模な設備投資を必要とするものがあるので、総じて巨額になろうが、人文科学系や社会科学系では小規模なものに留まるだろう。しかし、共通点もある。自然科学系の各研究ユニットが、自らが必要とする実験施設を効率的に作ってくれるプロ集団を必要とするように、人文科学系や社会科学系の研究ユニットも、手際よく各種の調査をしてくれるプロ集団を必要とするだろう。

これまでの日本の組織では、何でもかんでも自前でやる事が当然とされてきたように思えるが、こういうやり方は今後は思い切って変えていかねば、コストを抑えられないのみならず、成果を出すまでに時間がかかりすぎ、国際的な競争力を失ってしまう。学会の運営なども、そういった事に手慣れた業者にやってもらった方が良いと思うのだが、現状では、ただでさえ忙しい若手の准教授等に相当の負担をかけている様だ。

常に話題になる産学連携も、異分野間の交流も、研究活動を「権威主義」から「目標管理主義」に転換させる為に大いに役立つだろう。多くの研究には「発想の飛躍」が最も望まれるから、この為にも役立つだろうし、人員の相互乗り入れにより各研究員の視野が広がるという利点ももたらされるだろう。

蛇足ながら、最後にもう一言。
梶田隆章さんがニュートリノに関する研究でノーベル賞を受賞した事から、かつての民主党政権下で、この研究が「事業仕分け」の対象となり、もう少しで予算を削られることになっていた事が明るみに出た。「どうせ内容は分からないので、とにかく一律に予算を縮小する」という方針が背景にあったと知って驚いたのは、私だけではないだろう。

「政治家は難しいことはわからない」というのは事実だから、それはそれでよいが、「どういう基準で仕訳をするのか」については一つの「思想哲学」がなければならないし、内容を理解して優先順位を決める「審査員の人選」には、何よりも意を尽くすべきが当然だ。これがなかったというのなら、弁解の余地はない。

「教育機関としての大学」の改革案については、次回の記事に譲ります。