人間の真の値打ち

人間の真の値打ちは、その人がどこまで「人のお世話」が出来るかどうか、という一事に帰するともいえよう――森信三先生は、そのように述べておられます。私も全くその通りだと思っています。


人間は此の世に生まれた人間としての役割、他の動物にはない「人間性」というものを天から受けています。之は人間には人間としての生き方や役割があるということで、即ち天が人間に使命(ミッション)を負わせ此の世に送り出したということです。

天は人間を自分の分身だとしていると言っても過言でなく、人間は此の世を良き方に向かわせるべく存在し、更に人間は死んでも、此の世の進歩発展の永続化のための遺産を残すことも含め、世のため人のため生きるようにすべく天意を受けているのだと思います。

人間は、死すべきものとして此の世に生まれています。それ故この世に生ある間、それなりの仕事をして行かねばなりません。その仕事とは言うまでもなく、己の私利私欲のためではありません。

人間基本的に今この時代、自分と共に此の地球上で生きている誰か或いはそうした複数人のプラスにならんことを本来使命として背負っており、それを成就させることが結果としてその人間の生き甲斐になって行くのだと思います。

従ってその人の使命に応じて、果たすべき対象というものに違いはあります。安岡正篤先生も「人間において棄人、棄てる人間なんているものではない」と言われている通り、「天に棄物なし」全ての人の「人生に無駄なし」です。

此の世に生ある限り世のため人のためとなるような志を立て、その志を遂げるべく夫々の人が夫々の形で粉骨砕身生き行くべきなのです。平均寿命も延びた今という時代、年老いて尚体力も充実している人は数多くなっています。

しかしながら精々人生の賞味期限はと言うと、多分35年から40年位でそれ程長くはありません。此の僅かな間にどうしてもやり遂げなければならない天命があるわけで、そうでなければ棺桶に入る時やり残したという気持ちが出てくるのではと思います。

人間みな生まれた時から棺桶に向かって走っており、そして人生は二度ないわけです。世にお金を惜しむ人は沢山いる一方、時間を惜しむ人が少ないのは何故でしょうか。一たび過ぎ去った時間は二度と取り戻し得ない、大変貴重なものであります。

『論語』の中にも「倦(う)むこと無かれ」(子路第十三の一)とあるように、我々は途中で諦めたりせず決心した事柄は最後までやり遂げる、という強い意志を持たなければなりません。

そして、此の孔子の言とも関連したことで「惜陰」という考え方、正に此の一時一時を大切にし寸暇を惜しんで行かねばなりません。凡そ此の世にあるもの全ては何時の日か必ず朽ち行くわけで、儚いがゆえ時間を大切にするということが非常に大事になるのです。

曾子(そうし)は「士は以て弘毅(こうき)ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す。亦(また)重からずや。死して後已(や)む、亦遠からずや」(泰伯第八の七)、つまり「学徒たる者は度量があって、意志が強く、毅然としていなくてはならず、責任重大で道は遠い。仁道を推し進めるのが自らの責務であり、この任務は重大である。死んで初めて終わるとは、何と道程は遠いことではないか!」と言っています。

正に「任重くして道遠し」ということで人道を極めて多くの人を感化し、此の社会をより良くして行く責任というのは本当に重いものです。「これでもう自分は思い残すことなく世のため人のため十分やりきった!」と私自身、心底納得して此の世を去れたらばどれ程幸せかと考えています。

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