人間の成長

『致知』2015年11月号の中で「人間は自分の得にならないことをやらなければ成長できない」という、イエローハット創業者・鍵山秀三郎さんの言葉が紹介されていました。此の「得にならないこと」が何を指して言われたものか、率直に申し上げて私にはよく分かりません。


先ず人間の成長にとっては基本、あらゆる行為がその糧となり得そこに必ず結び付くものだと私は思っています。自分の得になったことで成長しないとも思いませんし、自分の得にならないことをやったことで成長するとも思いません。

森信三先生は「たとえその人が、いかに才知才能に優れた人であっても、またどれほど人物の立派な人であっても、下坐を行じた経験を持たない人ですと、どこか保証しきれない危なっかしさの付きまとうのを、免れないように思うのです」と述べておられます。

また、森先生は「ご不浄の中に落ちている紙屑の類を拾って、それを容器の中へ入れておくとか、さらには人の粗相をした跡を、人知れず浄めておくとか、すべて人目に立たぬところで――なるべく人に気付かれないように――善行を積むということ」が、『「報いを求めぬ」境涯にいたる一つの方法』とも言われています。

「下坐行」とは元来「下座」ということで、一般の人々より下位につくことです。即ち、自分の身を他人よりも一段低い位置に置くことを言います。そうした下がった位置に身を置き、その地位に安んじて我が身の修行に励むことを下坐行というのです。

此の下坐行は「情念の浄化」のため役立つと、森先生は言われています。私自身も、世の中で本来あるべき自分の地位等を全て捨て、自分自身の立場を一枚下に落とした所で物事をやってみることで、自らの傲慢になる心・驕慢になる心を浄化できるのではと考えています。

ある意味人間が陥り易いそうした側面を下坐に行じ、己を清め行く中で自らを高めて行くということです。自修自得すべく自分自身をどう磨き成長して行くかという点で、「ゴミを拾って歩きます」「便所掃除をして歩きます」といった形で、下坐行の世界に身を置くことは確かに大変意味があることだと思います。

それからもう一つ、あらゆる事柄から人間は成長できるとして上記に続けて言うなれば、そもそも損得勘定を持つこと自体をやめた方が良いでしょう。人間如何ともし難い理由で嫌なことをやらねばならぬ状況は、必ずどこかであるものです。

大多数が全くやりたくないと思っているにも拘らず、その大多数が無理矢理やらされている仕組の端的な例の一つが戦争です。戦地で危うい所に身を置きたいと思う人は誰もいません。誰一人として特攻隊のパイロットになりたいとも思いません。

しかしそれが嫌であったとしても命令に従わねばならない境涯に置かれ、祖国のため同朋のためやらねばならぬと言って、多くの人がその尊い命を落としてしまったという歴史があるのです。

国家というものが誕生して以来、人類は国家我(言わば国のエゴ)の類をずっと持ち続けてきたわけです。国家の場合は個人の場合より情念を浄化するは難しく、結局行き着く所は浄化された個々人がどれだけ増えるかでしかありません。

そういう意味では、ある種の組織我というものが個人の我を超越する中で、やりたくないことをやらされることもあるというのが現実です。之はやらされている本人が、何らかの損得勘定に基づいてやっているわけではありません。

では、それが人間の成長にとってプラスに作用するかと言ってみれば、戦争体験という大きな意味では結果として、「戦争ほど悲惨なものはない」ということを悟る人が結構います。しかし、同じ悲劇を繰り返すというのが人類の歴史の一側面であり、戦争などは人間の精神性が如何に進歩して行かないかを表す一つの典型例と言えましょう。

毎年8.15を前にして日本では多くの人が、「こんな馬鹿なことは二度とすべきでない」と不戦の誓いを掲げて祈り多数の犠牲者に追悼の誠を捧げるは、ある意味人間としての成長だと私は捉えています。

人間の成長とは、物事の損得で考えるような性質の類ではないのです。人間の行うあらゆることに無駄がないとするならば、その全てが人間の成長に繋がるという意味で無駄がないのだと思います。

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