前回書いた林千勝著「日米開戦 陸軍の勝算」を読む、の続編を書く。
陸軍省研究班が有力な対英米戦略を策定しながら、山本五十六連合艦隊司令長官が「暴走」したことから日本は敗戦した。これが前回の結論だ。
世間では未だに「海軍は善で、陸軍が横暴だった」という固定観念が根強い。特に山本五十六は「日米開戦反対を最後まで主張していた。開戦と決まって仕方なく真珠湾攻撃をめざした」という好意的な意見が多い。
だが、ではなぜ米国民を怒らせる真珠湾攻撃を強行したのか。
実は陸軍省研究班の対英米戦略の腹案(アイデア)は、陸軍参謀本部と海軍軍令部の間で基本的に了承され、昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議で正式に決定されていた。その「方針」は以下の通りだ。
極東における米英蘭の根拠地を覆滅して自存自衛を確立するとともに、更に積極的措置により蒋(介石)政権の屈服を促進し、独伊と提携して先づ英の屈服を図り、米の継戦意思を喪失せしむるに勉む
米国に対してはどういう態度で臨むのか。腹案はこう書いている。
日独伊は協力し対英措置と並行して米の戦意を喪失せしむるに勉む/対米宣伝謀略を強化す/其の重点を米海軍主力の極東への誘致並びに米極東政策の反省と日米戦無意義指摘に置き、米国輿論の厭戦誘致に導く
日本の軍部は、ルーズベルト大統領がチャーチルの要請に応えて第2次大戦に参戦したがっているのに反し、米国民の多くが第2次大戦への参加を拒んでいることを良く知っていた。だから、米輿論の厭戦気分を高め、戦意を喪失することが得策と考えていた。
山本五十六は真珠湾を攻撃してギャフンと言わせれば、米国民の戦意は喪失すると考えていたようだ。これほど愚かなことはない。力のある者が緒戦で鼻っ柱を叩かれれば、激高して大反撃に出ると考えるのが自然ではないか。
実際に激高し、厭戦気分は雲散霧消、「日本叩くべし」の声が全米で高まった。米国は当時、経済力が世界最大。太平洋での海軍力は日本と拮抗していたが、イザとなれば一気に戦力を拡大できる。実際、そうなった。
上記の腹案はそれを恐れ、極力、米国の戦意を抑制することが肝腎と考えていた。山本五十六はそれと180度違う挙に出たのだ。日本を奈落の底に導いた愚将と言わずしてなんと言おう。
だが、もっと問題なのは、なぜ大本営はそんな山本の「暴走」を抑えることができなかったのか。もう一度言えば「腹案」が大本営連絡会議で決定したのは昭和16年11月15日である。
真珠湾攻撃によって日米戦の戦端が開かれたのは同年12月9日である。すでに「腹案」決定時には山本五十六率いる連合艦隊は真珠湾攻撃を目指し、大きく動き出していた。最後通牒が米国に手渡されればすぐに攻撃できるように。
これってあり、ですか。「腹案」は米国には極力、こちらから手出しせず、戦う場合は「極東に米海軍をひきつけて」と書いている。そのそばで太平洋の米国よりの真珠湾に攻撃に出かける。大本営政府連絡会議を完全に無視した格好である。
組織として体を成していない、と言わざるをえない。
これに対して「緒戦のみ戦術として真珠湾を攻撃して米国に打撃を与え、後は極東、インド洋での戦闘に注力するという戦術はありえた」という意見がある。大本営の「戦略」と山本の「戦術」に齟齬はない、というわけだ。
だが、それは牽強付会というものだ。真珠湾攻撃という「戦術」はどう考えても「米国を怒らせない」「厭戦気分を高める」「米軍は極東に誘致する」という「戦略」に対立する。戦術はつねに戦略に従わなければならない。
にもかかわらず、山本の戦術を認めたところに日本の軍部の、そして日本政府の組織的欠陥があったといわざるをえない。
統帥権の干犯問題により、政府は軍部をコントロールできない。のみならず、陸軍と海軍は同格で互いに相手を掣肘できない。できるのは天皇のみだが、それは形式的で、天皇に軍事的、政治的な権限は実質的になかった。
だから、勝手ばらばらというひどい状態だった。海軍、陸軍内においても統率がとれない。陸軍では関東軍の暴走を抑えられなかったし、海軍にも山本五十六という権威を抑える強い権力が存在せず、「腹案」に反する戦術を黙認してしまったのである。
緒戦の真珠湾攻撃で中途半端に勝ったことがさらに組織的欠陥の傷を大きくした。山本五十六は軍神のように当時の新聞などのメディアで賞賛され、日本から遠いミッドウェーへの攻撃、ガダルカナルへの進出など「腹案」の逆を行く山本の戦術を阻止できなかった。その結果、大敗し、失敗した。
リーダーの統制がきかず、ボトムアップで勝手な行動を黙認してしまう風潮は今も各省庁、古い体質の大企業に見られる。日本の業病ともいうべき、この組織的欠陥を正さすことが不可欠だ。
安倍政権は曲りなりにも強いリーダーシップを保っている。これを維持、強化する政治、行政を築いていかねばならない。