“愛されなかった人”の時代は来るか --- 長谷川 良

「悲しみよこんにちわ」というフランス作家フランソワーズ・サガンの小説があるが、人生の悲しみは出来る限り少ない方がいい。悲しい体験、経験が多いと、その人の言動にどうしても歪みが出てくる。人は悲しさに対して無傷であり得ないからだ。

悲しみは単なる感情の揺れではなく、人の心の奥まで侵入して消えない。ある日、突然、過去の悲しい思い出が顔を出し、その言動に影響を与える。そんな経験をした人もいるだろう。悲しい体験を昇華して、その残滓を感じさせない人は本当に少ない。

悲しみを多く体験した人は満身創痍だ。KO寸前のボクサーの姿を思い出してほしい。ボクサーの場合とは違い、人生の悲しい体験は精神的痛みだ。その痛みは消えることはなく、暴発する機会を伺っている。

それでは悲しみの体験のまったく無い人はいるのか。悲しみを体験していない人のイメージはなかなか湧いてこない。ひょっとしたら生まれたばかりの赤子かもしれない。イエスは「神の国は幼子のような者の国だ」と述べている。しかし、その赤子も胎児期間、親から既に悲しみを継承したDNAを受け取っているはずだ(「人類の“殺人へのDNA”を解明せよ」2015年1月31日参考)。

少し遅くなったが、ここでいう「悲しい体験」について、少し説明する。ここで扱う悲しみとは、「愛されなかった」という感情に集約できるだろう。「愛されない」ことで心が蹂躙された体験だ。この体験は残念ながら容易には癒されない。

人類始祖アダムとエバの間の2人の息子、カインとアベルの話をご存知だろう。カインは弟アベルを殺した。人類最初の殺人事件だ。カインの殺人動機は神から「愛されていない」という感情だ。神はアベルの供え物を受け取り、カインのそれを拒否した話は創世記に記述されている。神から愛されているアベルに対し、抑えることができない嫉妬と恨みが湧いてきた。シャーロックホームズの登場を願わなくても、カインの殺人動機は明らかだ。この「愛されなかった」という思いがカインの心の中に定着し、後世に継承されていった。

「愛されていない」と感じるカインを「愛されている」と悟らせてきたのがイエスの福音だった。「愛されていない」と感じてきたカインを「愛されている」と実感させることができたら、それは奇跡だろう。一方、共産主義は「愛されていない」と感じている多くの人々に、「われわれを愛さなかった人」を見つけ、吊し上げようと呼びかけた。共産主義を標榜する政党の歴史に粛清が絶えなかったのは偶然ではなく、必然だった。しかし、愛さなかった人(資本主義者)を吊し上げても、やはり愛される体験を味わえなかった人々が多かったことは共産党の歴史が実証している。

「愛されなかった」人はその悲しみを昇華できるだろうか。カインがアベルを愛する日が到来するだろうか。もし「愛されなかった」人が「愛されてきた人」を積極的に愛する姿を見たら、その人こそ愛の王者というべきだろう。

神の祝福を受けた立場にあったヤコブが21年間、苦労した後、その妻、子供、財物をもって兄エサウと出会い、互いに和解する話が聖書にある。エサウは弟ヤコブに騙されて神の祝福を受けられなかった。その意味で、カインの立場と酷似している。問題は、聖書はヤコブの苦労を描いているが、祝福を奪われたカインの立場のエサウの「その後」については何も言及していないことだ。「愛されている者」(ヤコブ)と「愛されなかった者」(エサウ)の愛の和解では、前者の責任がより大きいことを示唆している。

疑問が一つ残る。カインとアベルが和解できずに戦っていた時、なぜ母親のエバは両者の間に入って互いに歩み寄るように説得しなかったかだ。エバが両者の間に入って調停すればカインはアベルを殺さずに済んだかもしれない。同じように、なぜマリアは息子イエスを助け、十字架の道から息子を守ることが出来なかったのか。ひょっとしたら、エバもマリアも愛の感性ではまだ未熟だったのかもしれない。21世紀は女性の時代といわれるが、その女性の愛の感性が再び問われる時代に遭遇してきたように感じる。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年11月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。