頻発するテロとどう向き合うか?

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「イスラム過激派による暴虐な行為やテロを、イスラム教そのものと結びつけてはならない」と主張する人は多く、私も勿論その立場だが、事はそれ程容易ではない。全世界が全力を挙げて今起こっている問題に立ち向かう決意を持たないと、現在起こりつつある危機的状況は、果てしなく増殖していく恐れがある。

イスラム教徒は全世界に16億人もおり、人数ではキリスト教に及ばないが、「信仰心の深さ」と「社会規範としての浸透度」から言えば、現時点ではキリスト教を凌ぐに至っているのではないだろうか。もし現在の「過激組織によるテロ」が「倍々ゲームのような報復の連鎖」と「広汎な疑心暗鬼」を生み出し、これが遂には「イスラム教と他宗教との対立」にまで及ぶと、かつて人類を「核戦争による破滅の危機」の瀬戸際にまで追い込んだ「イデオロギー対立」以上の危機を招きかねない。

イスラムの社会規範と欧米社会の価値観の差異は
容易には埋められない。


イエスを神の子とするキリスト教に対し、イスラム教では「神に子がいるわけはなく、そんな事を信じるのは神への冒涜である」と考えているので、この二つの宗教は永久に相容れない。しかし、問題はそこにあるのではない。問題は宗教と一体化した社会規範だ。信仰心の厚いイスラム教徒は、日常の社会生活においても、コーランに書かれている事を無条件に受け入れるが、その中には欧米社会の人達の眉をひそめさせるものも数多い。一つの分かり易い典型的な例は、現代の女権論者が読めば卒倒する程の「女性差別」だ。

人前でのべール着用の義務付けも、元はと言えば「女性が人前で肌を晒せば、それは強姦を誘っているのに等しく、強姦者以上の罪がその女性にある」という考えから生まれたものだが、多くの信仰心の厚いイスラム教徒の女性は、そのような掟に唯々諾々として従っており、これを禁止されれば、信仰自体を禁止されたにも等しく感じるのだ。

今回のパリでのテロが、他の都市での多くのテロに対するものに比べ、その数倍もの反発を引き起こしている事について、これを批判的に見る人達もいる。しかし、それには理由がある。「自由、平等、博愛」への思いを三色旗に込めたフランスは、「近代西欧社会の価値観」を絶対視し、それに誰よりも誇りを持っている国だ。だから、これ対する挑戦には断固として立ち上がるし、その周囲に連帯も広がる。

ちなみに、フランスの公立学校ではイスラム教徒の生徒にベールの着用を禁じた。「共和国の理念は如何なる宗教よりも上位にある」という信念故だ。しかし、これで困惑しているのは信心深いイスラムの女性だ。共に「良い人達」なのに、既にこの様な「相克」が生まれている。

しかし、パリのイスラム社会には過激な考えを持つ人達も当然数多くいる。一方、フランス人の中にも過激な国粋主義者は数多くおり、今回の事件の後、その人達は力を増しつつある。そして、お互いに、誰が「善良な人」で、誰が「危険な人」かを、区別するのは難しい。従って、こういう人達が同じ場所に一緒に住み、お互いに「疑心暗鬼」と「被害者意識」を高じさせて行けば、その行き先にあるのは、寒気のするような凄惨な事件の繰り返しでしかないように思える。

問題の解決に必要な方策


この深刻な事態を改善する為には、当然「短期的な施策」と「長期的な施策」が必要であり、そのどちらも欠けてはならない。また、この方策を議論する場合には、全ての当事者が「取り敢えず過去の事は問わない」という姿勢を取らなければならない。

イスラム諸国にすれば、「何故イスラエルの建国を許したのか?」「何故自分達の思惑だけで勝手に国境線を作ったのか?」「長年にわたる石油資源の収奪に対する反省はないのか?」等々、言いたい恨み言は山程あるだろう。しかし、それを言い出せば、欧米諸国は硬化し、話し合いはそこで終わってしまう。イスラエルも、国境線も、国際石油資本も、既にそこにあり、これを元に戻すのは極めて難しいからだ。

短期的には、先ずはISの様な組織には地球上から消えて貰うしかない。彼等とは理念的に話し合いの余地はありそうにないからだ。この為には、先ずは彼等の支配下にある油田施設や搬送手段、軍事拠点等を、爆撃などで壊滅させるしかない。勿論、それだけでは全ての問題を解決するには程遠いが、これが少なくとも「必要条件」の一つである事は間違いない。

「綺麗事だけを言っていれば済む」と思っている「自称平和主義者」達は「爆撃をするから報復テロが起こるのだ」等と言っているようだが、それでは、もし爆撃をしなかったらどうなるか? ISはどんどん版図を広げ、支配下では暴虐の限りを尽くし、次々に数限りない難民を欧州に送り出し、潤沢な資金で世界中のテロリストを支援するだろう。

次に、これには異論も多いだろうが、私は「欧州諸国は安易に難民を受け入れるべきではない」と考えている。「人道主義」は時としてより悲惨な結末を招く。欧州諸国でこれ以上イスラム教徒の人口が増えると、必ずこれに反発する国粋主義者達の力が強まり、テロの応酬が激化し、下手をすれば、かつてユダヤ人を無差別に殺戮したナチスのような勢力すら、いくつかの国で台頭する懸念がないとは言い切れないからだ。

抜本的な解決策は、何としても、中近東地域に、そこに祖国を持つ人達が安住出来る場所を確立する事だ。この為には、あらゆる関係者が思い切った戦略的な妥協を行い、大胆な決断をする事が必要だ。場合によれば、「同一民族、同一宗教をベースとして、新しい国や国境線を作る」事も逡巡するべきではないと私は思っている。それは容易な事ではないが、それ以外には、人類が地球規模での新たな危機を脱する方策はない様な気がする。

長期的な解決の為にはイスラムの宗教指導者達の努力が欠かせない。


現在の状況は「欧米型の近代社会の危機」であると同時に「世界中のイスラム教徒の危機」でもあるから、イスラムの宗教指導者達は、彼等を救う為に如何なる努力も惜しむべきではない。世界中の如何なる人達の心の中からも、「イスラム・イコール・過激思想」という誤解を完全に払拭させる必要があるし、現在の「対立の図式」を、間違っても「イスラム教とキリスト教の対立」と見立てさせない事が必要だ。

私にはよく分かってはいないが、コーランには多くのことが書かれている筈だから、宗教指導者達が、その中から「異教徒に対するより寛容な考え方」「より柔軟な社会規範」「不信心な行為に対するより穏健な処断」「女性の社会参加のある程度の許容」等々を語っている部分を選び出して、その部分を強調して信者達を教え諭してくれれば、これはとても大きな力になる。

かつてのイスラム教の草創期には、ムハンマドの後継者をめぐる壮絶な権力闘争があり、それに勝ち抜いた勢力は、そこで使った武力をコストをかける事なく温存させる必要があった。その為には周辺諸国に侵攻する必要があり、先ずはビザンチン帝国、次にはペルシャがターゲットになった。そして、この一連の戦争に勝利する為に、対象となった国には「信仰か死か(剣かコーランか)」の二者択一を突きつけ、兵士達には「占領地での略奪」や「支配地の女性達への暴虐な行為」を許した。しかし、今や時代は変わったのだ。

スンニ派とシーア派に代表される宗派間の対立も難しい問題だが、これについても非イスラム世界ではどうする事も出来ない。各宗派の指導者間の真摯な話し合いに期待するしかない。

日本はどうすればよいか?


「これはキリスト教とイスラム教の問題だから日本は無関係」と言ったり、「過去に身勝手な行動をしてこの地域に多くの問題の種を撒き散らした欧米諸国が全責任を取るべき」と言ったりして、局外中立を装い、テロの対象となる事を免れようと考えている人達も多いようだが、これは無責任で卑怯な態度だ。

「中近東からの原油の安定供給が日本経済の為には欠かせない」事を知りながらも、その為の体制作りは誰かに頼り、あわよくば只乗りしようというさもしい根性では、いつかは国際社会からしっぺ返しを食うだろう。また、全てのテロの根源には、結局は貧困や格差の問題がある事は明らかだから、日本は戦争行為には直接関与しなくても、この問題を解決する為に大きな貢献をする余地は十分にあると考えるべきだ。

それに、これは既に論じた事かもしれないが、日本がこの問題に「高みの見物」を決め込めば、それは憲法違反であるとも言えるだろう。私は護憲論者ではないが、現在の日本国憲法の前文では、「政治道徳は普遍的なものである」と規定し、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を築く」事を誓っている

松本 徹三