「人は考え、過ちを犯す葦だ」 --- 長谷川 良

「人間は考える葦である」という。ただし、フランスの17世紀の思想家B・パスカルの時代はそれで十分だったかもしれないが、人間だけが考えているのでないことは現代の生物・動物学の急速な発展で明らかになった。植物も動物も考えている。

▲パスカル(Wikipedia、アゴラ編集部)

そこで、「人間も考える葦である」と修正すべきかもしれない。ただし、人間の尊厳に執着する人は、「人間は考える最高の葦だ」と主張するだろう。しかし、冷静に考えると、これも少々論拠が心細い。人間は他の動物が犯さない過ちをする。それも繰り返し同じ過ちを犯す。

だから、「人間は考えるが、他の動物がしない過ちを犯す葦である」というのが最も正鵠を射ているのかもしれないが、「考えながら、過ちを犯すのなら、わざわざ“考える葦”と表現する必要性はない」という人が出てきても不思議ではない。

師走を迎え、多忙な日々なのに、なぜ、屁理屈をこねているのか、どうでもいいではないか、と指摘されるかもしれない。しかし、コラムニストとしてやはり拘らざるを得ないのだ。考えずに過ちを犯すのなら、「もっと考えろ」と発破をかけることができるが、一生懸命考えた末、過ちを犯すのなら、少々憂鬱になる。

考えた以上、その結論は正しいという信念をなかなか放棄できないものだ。さもなければ、考えても仕方がないという思いが先行し、考えることを止める人が出てくる。もちろん、考えない人が増えたとしても、社会が即カオスに陥るとは断言できない。ひょっとしたら、考える人で構成された社会より、社会の運営はうまくいくかもしれない。しかし、人間の尊厳は決定的に地に落ちてしまう。

良しとしたことがその後、「どうやら間違いだった」と言わざるを得ない出来事を考えよう。
冷戦時代、「宗教はアヘン」という無神論世界が崩壊し、「宗教の自由」が保障されれば、神を見出す人が増えるだろうと考えたが、共産主義世界が崩壊し、「宗教の自由」が回復された後、神はその自由な社会から追放されていったのだ。無神論世界観の時代よりも神は不在となったのだ。「ベルリンの壁」が崩壊すれば、民主主義と自由を享受できると信じてきた。しかし、自由という“錦の御旗”を掲げて神を追放できるとは考えていなかった。あれほど希求してきた自由が神を追放し出したのだ。なんという誤算だろうか。

次はイラクのフセイン独裁政権の崩壊だ。米国はイラクに民主政権を構築しようとしたが、フセイン政権の崩壊は中東諸国のカオスの始めとなったことを今、われわれは体験中だ。
 
20世紀から現在に至るまで、人間が良しと考えた結果、全く違う結果が生まれた事態を目撃してきた。“アラブの春”は混乱と新たな紛争を生み出しただけだ。われわれは民主主義はアラブでも貴重であり、国民を幸せにすると確信してきたが、どうやらそうではなかったのだ。ここでも考え違いをしていた。

最近では、難民の欧州殺到だ。メルケル独首相やファイマン・オーストリア首相は難民ウエルカム政策を主張し、ダブリン条項を暫定的に停止、シリア難民の受け入れを表明した。しかし、欧州、特にドイツに殺到する難民が100万人にも拡大する気配が出て、国民からも受け入れに反対の声が出てきた。「パリ同時テロ」ではバルカン・ルートでイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」メンバーが難民に混じり、欧州入りしたことが分かってきた。

メルケル首相は深刻とならざるを得なくなった。そこでトルコに難民キャンプを設置し、難民の審査を要求、その代わりにトルコ国民の欧州への旅券発行の緩和、難民対策資金の提供などの取引をしたばかりだ。

思い出してほしい。ハンガリーのオルバン首相がバルカン経由で流入する難民を阻止するため壁を設置し、警察部隊が棍棒を振り回して難民を追放した時、ハンガリー政府の難民政策をホロコーストと批判したのは誰だったろうか。メルケル首相は今、トルコの助けを受け、同じ政策を実施しようとしているのだ。

メルケル首相は、シリア紛争で家を失ったシリア難民を受け入れることが欧州社会の義務と考え、国内の反対の声を抑えて難民の受け入れを継続してきたが、最終的には、トルコの支援を受けて難民流入の阻止に乗り出してきたわけだ。メルケル首相は事態を正しく判断できず、人道主義的仮面を脱ぐことが出来なかったわけだ。人道主義の魅力に思考が曇った実例だろう。

結論を急ごう。「考える葦」というタイトルを放棄すべきか。それとも、謙虚に頭を下げながら考え続けるべきだろうか。真摯な人なら、後者の道を選択するだろう。途中で分かった過ちを修正しながら、一歩一歩前進する以外にないからだ。発展とは思考の成果というより、その修正の積み重ねから生まれてくるのではないか。

それにしても分からないことがある。日本人の憲法に対する姿勢だ。戦後から今日まで改正されずに同じ憲法が続いてきた。日本人は考えることを止めたのだろうか。それとも終戦直後米国から与えられた憲法がその後の改正を要求しないほど完成度の高い憲法だったのか。当方には前者のように思える。

優秀な民族であることを自他と共に認める日本人が憲法問題になると途端に思考を停止してしまっているように見えるのだ。多くの日本人は神を信じないが、憲法を信じている。日本人にとって憲法は一種の信仰対象となっているのではないか。信仰だから考えず、信じるだけだ。考える信者は教会からは嫌われる。そのように考える以外に、日本人の憲法に対する思考停止を説明できないのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年12月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。