忙しい時のほうが、諸事万端うまくいく――之は戦後、東急グループに躍進を齎した五島昇(1916年-1989年)さんの言葉です。
忙しい時の方が諸事万端上手く行く、とは私には思えません。私の場合寧ろ忙しさに感(かま)けて何もせずに、終わってしまうことが多いかと思います。
日頃「忙しい、忙しい」と言っている人程、私から見て忙しくない人が結構いるように思います。
そうした類の人達は、真に向き合うべき仕事に取り組まず、詰まらぬ仕事をやり過ぎていることの方が多いような気もします。
「忙」という字は「心」を表す「忄」偏に「亡」と書きますが、そのような人々はある意味心を亡(な)くす方に向かっているのかもしれません。
そしていよいよそれが高じて、睡眠不足になり鬱病になることもあるわけです。だから東洋哲学では、「静」や「閑」ということを非常に大事にしています。
『三国志』の英雄・諸葛孔明は五丈原で陣没する時、息子の瞻(せん)に宛てた手紙の中に「澹泊明志、寧静致遠(たんぱくめいし、ねいせいちえん)」という、有名な対句を遺言の中に認(したた)めました。
之は、「私利私欲に溺れることなく淡泊でなければ志を明らかにできない。落ち着いてゆったりした静かな気持ちでいなければ遠大な境地に到達できない」という意味です。
苛烈極まる戦争が続く日々に、そうした遠大な境地を常に保ってきた諸葛孔明らしい実に素晴らしい味わい深い言葉だと思います。
あるいは、安岡正篤先生も座右の銘にされていた「六中観(りくちゅうかん:忙中閑有り。苦中楽有り。死中活有り。壺中天有り。意中人有り。腹中書有り)」という言葉の一つに、「忙中閑有り」とあります。
要は、どんなに忙しくとも自分で「閑」を見出すことが重要であり、静寂に心を休め瞑想に耽りながら、様々事が起こった時に対応し得る胆力を養って行くことも必要です。
此の「閑」という字は門構に「木」と書かれていますが、何ゆえ門構かと申しますと、それは門の内外で分けられることに因っています。
つまりは「門を入ると庭に木立が鬱蒼としていて、その木立の中を通り過ぎると別世界のように落ち着いて静かで気持ちが良い」ということで、「閑」には「静か」という意味が先ずあります。
また都会の喧噪や雑踏、あるいは日々沸き起こる色々な雑念から逃れ守られて、静かに出来るといったことから「防ぐ」という意味もありますし、また此の字には「暇(ひま)」という意味も勿論あります。
ゆったりした静かな気持ちで心落ち着く時間を作れたら、次なる仕事に対する新しいエネルギーと共に様々なアイデアが湧いてくるかもしれません。私は嘗て「休日の過ごし方」に関するブログを書いたことがあります。
ふっと落ち着いた時を得て心を癒し、短時間で遠大な境地に達し、それを一つの肥やしとして“Think Big.”で次なるビッグピクチャーを描いて行く――私は、こうした休日を楽しみたいと思っています。
取り分け創業経営者はその殆どが、朝起きてから夜寝るまで一日中ずっと頭の中が自分の会社の事柄で埋め尽くされているものです。だからこそ「閑」を意識的に作り出して行かなければ、ものを大きく考えることは出来ません。
そしてトップがビッグピクチャーをきちっと描き、統一体として組織の全一性を追求するという形にならなければ、決してその組織の大きな飛躍に繋げて行くことは出来ないと思います。
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