なぜ人は裸を恥ずかしく感じるか --- 長谷川 良

バチカン放送独語電子版(1月31日)は「芸術と宗教、この複雑な関係」という見出しの記事を配信した。その直接の契機は、イランのロハニ大統領のイタリア訪問時、レンツィ首相の意向もあってローマ市がカピトリーノ美術館に展示されている古代の裸体彫像を敬虔なイスラム教徒、イラン大統領の目に入らないように白い布で覆った、というニュースだ。

このニュースが配信されると、「馬鹿なことをする」「ゲストへの過剰な配慮」「芸術作品への検閲だ」といった批判的な声が多数を占めた。「よくやった」といった褒める声はさすがに少ない。昔の彫刻像を訪問者の文化的感情を尊重するあまり覆い隠すことは公的な検閲に当たる、といった問題提示をする知識人もいるほどだ。

興味本位の一部メディア報道とは違って、バチカン放送は「芸術と宗教、この複雑な関係」という格調ある見出しを掲げ、専門家の意見も入れた記事を配信していた。

バチカン放送の記事は「イタリアは怒っている。イタリアだけではない」という書き出しで始まる。裸体像を布で隠すように最初に言い出したのは誰か、といった犯人探しはせず、ブルカで覆われたモナリザ がインターネットの世界で人気を呼んでいる、といった客観的な事実を先ず紹介している。

その上、ドイツ出身の美術歴史家でバチカン博物館副館長アルノルド・ネッセルラート(Arnold Nesselrath)氏が「芸術は2つのルーツがある。一つは死者への追悼であり、もう一つは宗教だ。この2つの要素が古代から今日まで芸術品を創造させてきた」と説明している。

キリスト教会は昔から芸術家のパトロンだったし、同時に、検閲も行ってきた。有名な実例を紹介する。

バチカンのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロ(1475~1564年)の「最後の審判」(1535~41年)だ。ミケランジェロは「最後の審判」で多くの裸体姿を描いた、そのため、「聖なる場所に相応しくない」といった批判が教会内外から飛び出し、「イチジクの葉運動」と呼ばれる検閲が起きたという。パウルス4世は、「最後の審判」の作者ミケランジェロを「異端だ」と激しく罵倒したという記録が残されている。

ミケランジェロの死後、ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ(1509~66年)は1565年、ミケランジェロ作「最後の審判」の登場人物の性器を腰布やイチジクの葉で覆い隠す仕事を担当した。その為、ダニエレは「ズボン作り」という芸術家としては有難くないあだ名を貰ったほどだ。

ローマ法王は当時、人間の裸は恥ずかしいもので、公共の場では隠さなければならないと考えていた。問題は、なぜ人は裸を恥ずかしく思うのかだ。そこで人類の始祖アダムとエバの登場を求めざるを得ない。

旧約聖書の創世記にはアダムとエバが「エデンの園」から追放される話が記述されている。失楽園の直接の契機はアダムとエバが蛇に誘惑され、神が「取って食べてはならない」と戒めた善悪を知る木の実を取って食べたことにある。創世記には、取って食べる前までは、「アダムもエバも裸だったが恥ずかしいとは思わなかった」とわざわざ記述している。善悪を知る木の実を取って食べた後、アダムもエバも自分が裸であることを知ってその下部を覆ったというのだ。人類最初の“恥ずかしい”という感情が生まれた瞬間だ。

善悪を知るの木の実が単なる果実であったとすれば、食べた口を人は隠すが、アダムとエバは下部を隠した。人は罪を行ったところを隠そうとするから、アダムとエバは下部で罪を犯したという結論になるわけだ。

それ以来、人類は性行為、性器を恥ずかしいと感じだした。この感情は失楽園の話を記述したキリスト教世界だけに該当するのではない。世界宗教と呼ばれる宗教は程度の差こそあれ性的な行為や裸体を恥ずかしく感じ、戒めてきた。

ところで、ルネッサンスを経験し、人間の肉体の美、理性を賛美する人道主義時代に入ると、欧米キリスト教社会では次第に裸体は市民権を獲得していった。21世紀の欧米社会では裸体はもはやタブーではなく、商品化してきた。欧米社会では裸はもはや恥ずかしいとは受け取られなくなってきた。

そこに大きな商談を抱えてテヘランからイスラム教の厳格な指導者でもあるロハニ大統領がやってきた。商談を是非ともまとめたいイタリア側は、「裸は恥ずかしい」といった人類の感情が今も生きているイスラム世界のゲストを配慮して、カピトリーノ美術館の古代ローマ時代の裸体彫刻を慌てて白い布で隠した。

その行為は、アダム・エバからの継承した歴史的感情から出てきた対応というより、ビジネス最優先のクールな計算に基づいた接待の延長だったのではないか。それとも、ゲストに「裸は恥ずかしくないのだ」と説得できるだけの確信がないので、裸の芸術品を白い布で覆い隠したのだろうか。

いずれにしても、ロハニ大統領のローマ訪問は、裸文化に慣れ切った社会に生きるイタリア国民に、小さなカルチャー・ショックをもたらしたのではないか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年2月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。