※写真は佐賀県・吉野ケ里公園(筆者撮影)
古代史は知的な興味をそそる大変面白い分野だが、現代の日本を考える上でそんなに重要なファクターであるわけでもない。私も古代史は好きだが、アゴラで頻繁に扱う程の題材とは考えていない。それなのに、あまり読んでもらえそうもない記事を懲りもせずもう一度出すのは、次のような理由による。
私が八幡さんの記事に反発する理由
第一は「古代史に謎はない」という八幡さんの記事のタイトルは全く良くないと思うからだ。実際は、古代史には多くの謎があり、今後の新たな遺跡調査や推論の緻密化で段々と真実に近づいては行くだろうが、確信に値するような真相にたどり着くのは、先ず永久に無理だろうと思う。それなのに「古代史には謎はないのだから、この話を信じなさい」と言うのでは、真面目な考古学や古代史学を否定し、「皇国史観」だけを推し進めた戦前のやり方と全く同じだ。
元通産官僚で現在も日本の為に色々な活動をしておられる八幡さんが、この主題に拘って何度も記事を出され、それもますます断定的な書き方に傾斜しておられるのは理解に苦しむが、恐らくは、こういう記事は多くの国家主義的な考えを持っている人達に歓迎されるので、よく読まれ、従って広告収入も稼げるので、それが嬉しいからだろう。嫌韓反中の本が何冊も書店に並び、嫌韓反中の記事が何度も雑誌に掲載されるのも同じ事だ。これは、戦争を賛美する記事で部数を稼ごうとした戦前の日本の新聞と同じで、あまり褒められた事ではない。
第二は、八幡さんの論旨は、かつての「皇国史観」の推進者同様、古事記や日本書紀(記紀)に記載された事にその論拠の多くを依っており、中国や朝鮮半島の歴史に対する研究が極めて希薄だからだ。
本来、歴史というものはその時点での支配者が自分達を権威付けする為に書かせるものだから、相当時代を経ないとその歪みを是正できないし、外部の記録も参考にせねば、その中に含まれる嘘は暴けない。また、政変や新しい文化は、多くの場合外部からの刺激によってもたらされるもの故、歴史の研究は常に広域にわたる事象に目配りすべきだというのが常識だ。
第三に、八幡さんの筆致には、相変わらず「日本人は本来強くて立派であり、それ故に朝鮮半島にも進出していた」という「皇国史観」さながらのニュアンスが込められており、読者に迎合してか、益々そこが強調されている感があるからだ。
勿論、現代の韓国人の歴史観は日本人以上に我田引水だし、小沢一郎さんの様に「朝鮮半島から海を渡ってきた騎馬軍団が日本を征服した」というような滅茶苦茶な事を言う人もいるので、これに反発する気持は分かるが、古代史の世界でまで、国家意識、民族意識を煽るのはやめてほしい。「古代史こそ、日韓の学者達が、純粋に学者としての立場で、一緒になって真実を究明する絶好の場だ」と考えている私としては、こういう日本人が後を絶たないのはとても不愉快だ。
私の古代史の理解
同じ様な事を繰り返して語るのは気が進まないが、もう一度私の古代史についての基本的理解を語ると下記の通り。(勿論、これも多くの推論の一つに過ぎず、確証があるわけではない。)
- シベリアと陸続きの頃から日本に住んでいたツングース系の人達が縄文式文化を築いていたところに、数世紀にわたって朝鮮半島から波状的に渡ってきた人達が、縄文人と混血しつつ、水田式の稲作と弥生式文化を普及させた。(古代においては海路の方が陸路よりはるかに容易だったので、その後もずっと、朝鮮半島の南部と九州北部および山陰地方には極めて緊密な関係があった。)
- 中国の文献によれば、朝鮮半島の北部には高句麗を建国した「濊貊系の人達」が住み、西南部には「馬韓人」が、東南部には「辰韓人」が、そして、その両者の間と南部には「弁韓人」或いは「倭人」と呼ばれる人達が住んでいたと、その時代の中国人は理解していた様だが、弁韓地区では険しい山脈が陸上交通を難しくしていた上に、そこを流れる洛東江沿岸は増水期には簡単に冠水してしまうので農業に適さず、この為小国分立が続いて、遂には馬韓と辰韓に吸収されるに至ってしまった。
- 日本列島に移住してきていた倭人(弥生人)も、北九州の各地や山陰地方にそれぞれに小国を作り、お互いに抗争と併合を繰り返していたが、農耕に必須の鉄器を弁韓地方の金官伽耶国で生産されたものに頼っていた事もあり、半島にとどまっていた倭人との関係は緊密なまま保たれていた。(ずっと以前に移住してきていた人達が、後に故地を追われた親族を迎え入れたという様な事も屡々あっただろう。)
- 広い農耕地に恵まれず、しかも東西から圧迫を受けていた残留倭人と異なり、新天地に移住した倭人は、豊かな土地に恵まれて人口を急拡大させ、南へそして東へと移住を続けた。中でも、近畿地方の三輪山麓に侵入して(神話上の神武の東征)、その地の有力部族と合体して国(ナラ)を作った人達は、その数百年後(神話上の崇神天皇の時代)に四囲に勢力を拡大して、その後の大和朝廷の基礎を作った。勿論、その過程において、その周囲では多くの王朝の興亡があったのは想像に難くない。
- 700年代前半に編纂された古事記と日本書紀は、色々な場所で伝承されていた色々な時代の出来事を、適当に繋ぎ合わせて一つのストーリーにしたものだが、その目的が「中国の皇帝に対して大和朝廷の古い歴史と正当性を印象付ける」事であったのは明らか故、多くの作為が含まれているのは当然だ。また、そこには、すでに消失してしまった「百済記」からの引用も多く含まれるが、当時の百済は高句麗や新羅と対抗する為に日本との関係作りに熱心だったので、そこには多くの迎合的な言辞が含まれていただろう事も想像に難くない。
- 古事記や日本書記の記述に比べれば、「魏志倭人伝」や「広開土王の石碑」や「宋書」にある記述は、比較にならない程真実に近いと判断されるが、それでも「魏志倭人伝」の邪馬壹国のくだりなどは「誰かが人伝てに聞いた話をまた人伝てに聞いた話」だと思われるので、間違いも結構含まれていると見ておいた方が良い。
八幡さんへのメッセージ
八幡さんは何故か「日本の天皇が万世一系である」事に拘っておられるが、私にはその意味が全く理解できない。三王朝交代説はそんないいい加減な学説ではないし、そもそも不確かな古代史を語る時に、一つのストーリーだけに固執するのは正しい姿勢とは言えない。政治的思惑があるのなら、百害あって一利もないので、やめて貰った方が良い。
はっきりしているのは、天皇の祖先が天上から降りてきたのではないという事だけで、その血統は類人猿から延々と続いている筈だ。どこかの時点で何等かの権力機構を整備した筈だが、それが当時の日本で最大級のものだったかどうかは分からない。卑弥呼の邪馬台国は、実は古い時代の大和朝廷だったのかもしれないが、そうでなかったとしても、漢から金印を貰った奴国からも「上部組織」と見做されていたのだから、相当大きな存在であった事は否定できない。
私は歴史学者ではないが、実名できちんと議論しているので、八幡さんは反論があればどうぞ。
アゴラを「議論の場」に育てていく為に必要な事
私は2009年にアゴラが始まった時から記事を出させて頂いているが、アゴラの様なネットメディアが、「一つの考え方を推し進める」のではなく、「多様な考え方を吸い上げる」機能を持ち、且つ、双方向であるというネットメディアならではのメリットを存分に生かして、「甲論乙駁の活発な議論の場」として育っていく事を期待してきた。
残念ながら、アゴラの筆者には、私自身を含め、どちらかといえば「中道右派」的な傾向の人が多く、左派系の人達からの寄稿が少ない。左派系の人達の言説の多くは今なお旧態依然で、殆ど新味がないので、アゴラの様な論説の場にはふさわしくないのかもしれないが、放置すれば、アゴラも一定の傾向を持った読者が集まる場になり、一部の雑誌と似通ったものになってしまう事を私は危惧している。
アゴラのようなメディアは、「多くの人に読んで貰える記事」に脚光を当てるのは当然だし、それはそれでよいが、「これに反対する少数意見もある」事は、常に訴え続けていくべきだ。従って、私も、テーマによっては、今後とも極力その一翼を担っていきたいと思っている。