憲法の前文には、「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書かれている。どう考えてみても、おかしな日本語だ。「諸国民の公正と信義に」ではなく、「諸国民の公正と信義を」でなければ、日本語としておかしい。
そもそも、この憲法は、日本語で書かれたものではなく、翻訳からスタートしたものだからかもしれないが、こんなおかしな日本語で出来ている憲法を「平和憲法」と有難がっているのは異常なことだ。
日本国憲法の問題点は、その制定過程にある。日本人が作った「憲法草案」を否定し、占領軍が作った草案を、日本の政府草案として偽装して、作りあげたのがこの憲法だ。最近メルマガで、憲法制定権力の問題を論じているが、どうみても憲法制定権力がアメリカにあったのは明らかなのに、日本人の提案が採用されている部分があるから、日本製だなどと主張する説もあるが、これは、憲法制定権力の問題を無視した、あるいは理解できない、レベルの低い議論だ。主権回復後、速やかに憲法を改正すべきだったのだ。
さて、「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳い、第九条で、「戦力」の不保持と、「交戦権」を否定しているのだから、本来、憲法の精神を守り抜き、立憲主義を貫徹するためには、非武装でなければならない。当初、吉田茂は国会で自衛のための戦いすら放棄すると答弁していた。
しかし、マッカーサーが急に年頭所感で憲法九条は「自衛を否定するものではない」と解釈を変更したためにおかしなことになった。
「立憲主義を守れ!」と大騒ぎするなら、このときの解釈改憲を問題視し、自衛隊の存在すら否定すべきだ。多くの憲法学者、社会党はそう主張してきた。現実的には嘲笑されるレベルの安全保障観だが、憲法解釈としては筋が通っている。
だが、マッカーサー、吉田茂の解釈改憲によって成立した自衛隊の存在を認めながら、集団的自衛権の行使だけを問題視するのは「偽りの立憲主義」だ。
偽りの立憲主義者たちはPKOのときにも、「憲法九条が死ぬ」「立憲主義が否定される」と騒いでいた。彼らの主張が事実なら、既に憲法は死んでいるはずだ。それなのに、「集団的自衛権の限定的行使容認によって、憲法が死ぬ」とはどういうことなのか。
既にPKOで死んだと主張していた憲法は生きていたのか?それなら、彼らの主張が誤りであったことになる。
PKOで死んでいるなら、憲法は死体だ。まさか、憲法はゾンビのように徘徊するものなのだろうか。
拙著『平和の敵』で個別的自衛権、集団的自衛権、集団安全保障の解説、そして、PKOを派遣させる当時の憲法学者の言説を紹介した。詳細を知りたい方は、是非、確認して頂きたい。
最近、『正論』の特別号で、知識人や政治家が憲法について、どのようなスタンスに立っているのかを、無理矢理マッピングしたので、こちらも併せて御笑覧頂ければ幸いだ。
編集部より:この記事は政治学者・岩田温氏のブログ「岩田温の備忘録」2016年4月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は岩田温の備忘録をご覧ください。