品性なき舛添要一は一刻も早く辞任せよ

私は先週金曜日『常識なき都知事は去れ』というブログを書きましたが、その後続々出てくる様々な事実と思われる雑誌等の調査から判断するに、之は単に彼に常識がないという程度の話では済まされないことがよく分かりました。

次の言葉は近代経営学の父と呼ばれる、ピーター・F・ドラッカーの言葉です--経営者が為さねばならぬことは学ぶことが出来る。しかし経営者が学び得ないが、どうしても身につけなければならない資質がある。それは天才的な才能ではなくて、実はその人の品性なのである。

之は経営者に限った話ではありません。指導者たるに、ある意味どうしても身に付けねばならないものが此の品性なのです。舛添氏に纏わる色々な疑惑が事実であるとするならば或いは、それ待たずとも一週間前の記者会見だけで十分、彼には品性なき男というレッテルを貼らざるを得ないと思うのです。

私が安岡正篤先生と並んで私淑する、明治・大正・昭和と生き抜いた大哲人であり教育家である森信三先生も『修身教授録』の中で、次のように述べておられます--この気品というものが、ある意味では、全人格の結晶だと言うこともできましょう。実際気品というものは、その人から発する、いわば内面的な香りとでも言うべきもので、ここぞと、形の上にいって捉えることのできないものです。

森先生はまた「真の気品というものは、人間一代の修養のみでは、その完成に達し得ないほどに根深いものであると同時に、他面また気品を身につけるには、依然として修養によって心を清める以外に、その途のないことが明らかなわけです」というふうに言われてもいます。

あるいは福沢諭吉の言葉に、「独立自尊」というのが有名です。此の独立とは「自らの頭で考え判断するための知力を備えることにより、精神的に自立する」ということで、自尊とは「自らの品格を保つということ」です。舛添氏というのは当該思想とは、無縁だと思います。

今回彼を巡る一連の言動につきネットや新聞等で垣間見るに、舛添要一氏とは正に品性欠如の典型だとつくづく思いました。品性欠如は時として、吝嗇(りんしょく)というところで表れます。吝嗇とは中国古典でも最も軽蔑されていることで、一言で言えばケチということです。

例えば孔子は、「如(も)し周公(しゅうこう)の才の美ありとも、驕(おご)り且つ吝(やぶさ)かならしめば、其の余(よ)は観るに足らざるのみ」(泰伯第八の十一)、つまり「たとえ周公のような才能と美徳を具えていても、傲慢で吝嗇ならば、その点で何の取り柄もなくなってしまう」と言っています。吝嗇というものが最も、人間の品性と関わっているということです。

先週木曜日、前日発売の『週刊文春』の記事を受けてネットでも、『「血税タカリ 自腹の時はマックのクーポン」の舛添都知事に「リアルつるピカハゲ丸くん」「つるセコクーポン知事」の声』と題された記事も見られました。

己の金一銭すら出すのは拒み人の金は幾らでも使おうとする--舛添氏は正に吝嗇そのものを体現しているよう思われます。此の人は昔から言われる「出すのは舌を出すのもいやだけれども、貰うものなら猫の死骸でももらう」という人ではないでしょうか。

政権与党の自公両党としても、彼に関わり合うことを早々に止めた方が良いでしょう。何時までも結論を出せずに彼を叩き切ることが出来なければ、来たる参院選に多大なるネガティブインパクトが及ぶのではと危惧しています。

自公には2年前の2月の都知事選で自ら、彼を推薦し応援した責任があります。それが過ちであったと分かった今一刻も早く彼を引き摺り下ろし、都の人材として真に必要な人物を党派を超えてサポートして行くべきだと思います。

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