都知事選連載②都知事選が狂った“元凶”は小沢一郎だ

新田 哲史

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政治資金の使途を巡り、舛添要一・東京都知事は20日の記者会見で「第三者の弁護士に調査してもらう」と繰り返したが、世論の批判は収まる気配はない。本音レベルでは、舛添氏が年内に辞任し、都知事選の実施を予測する都民も多いだろうが、二代続けて都政が混乱する様は、東京特有の「メディア選挙」の構図に有権者も政党も“翻弄”され続けた末の悲劇としか言いようがない。

どこにでもある地方選だった昭和期

ただ、「メディア選挙」の様相が強まったのはこの四半世紀だ。スター作家の石原慎太郎が現職の美濃部亮吉に敗れた1975年の選挙で、劇場型の萌芽が見られることはあったが、昭和期の都知事選の有力候補は、官僚や学者、ジャーナリスト出身という堅実で地味なタイプが並んでいる。そして、彼らを組織的に支援したのも、自民党中心の保守系勢力と、社会党や共産党などの左派勢力であり、国政の55年体制を背景に、事実上の保革一騎打ちというわかりやすい構図だった。

つまり、昭和期の都知事選は「たしかに規模は大きく首都としての注目度は多少あるが、どこでもある地味な地方選挙」の印象が強かったわけだが、このある種の“予定調和”が乱れたのは1991年の都知事選だ。自民党本部が、4期目を目指した鈴木俊一知事に推薦を出さず、NHKキャスター出身の磯村尚徳を擁立。反発した自民の都連側の議員の多くが鈴木氏を支援するという異例の分裂選挙に発展したのだ。

そして、鈴木に対し、推薦を出さなかったのが小沢一郎。当時の小沢は、田中角栄と並んで歴代最年少の47歳で幹事長に就任し、「剛腕」の異名を取って注目され始めた頃だ。

剛腕幹事長が迫った「鈴木勇退」

鈴木は3期目を終えた時点で80歳。当初は、都庁を丸の内から新宿に移転したのを花道に勇退するとみられていたが、都議会自民党などから臨海副都心の開発などの推進に続投を支持する声が上がり、鈴木も次第に方針を転換しつつあった。ところが1990年秋、小沢は自民党本部に鈴木を呼び出し、「党の世論調査で鈴木支持は34%しかなかった」と暗に引退を促す。親子ほど歳の離れた“若造”のぶしつけな物言いに反論した鈴木は、独自に調査を実施するが、ここでも20%台に低迷。年明け、2度目の会談ではっきりと勇退を言われ、過去の選挙で、自民とともに鈴木を推した公明、民社も推薦を出さない方針に切り替わった。そして、党本部は磯村推薦を決め、一本化に乗り出す。

強引に進む「鈴木勇退」のシナリオに、自民党内で反旗を翻したのが鯨岡兵輔、粕谷茂ら東京選出の議員たちだった。すでに都議会議員や各種支援団体は鈴木支持を機関決定していたが、取りつく島もない党本部の姿勢に鯨岡らは「理不尽だ」と反発。自民都連の支援を得た鈴木は出馬を決意。選挙資金の工面に苦労した鈴木は家や退職手当を抵当にした。

こうして、世紀のパフォーマンス合戦が始まった

鈴木陣営の最大の弱点は「高齢・多選」への批判だった。しかし、粕谷の勧めた一世一代のパフォーマンスが空気を一変させる。本戦まで1か月余りで開催した総決起集会。ステージの上で鈴木は伸びやかな前屈を披露し、傘寿とは思えない体のキレを見せつけた(写真は真向法関連サイトより)。

立って床に手をつけるだけの動作。日頃の体操を見せたつもりの本人は「(周りが)大した興味はあると思わない」と感じたそうだが、パフォーマンスの意義を理解していたのは、官僚出身の鈴木にはない粕谷の政治家としてのセンスと言えそうだ。結果、来場者は驚き、取材に来ていたテレビメディアにとって格好の「画(え)」になった。視聴者の間で堅物知事の思わぬ“特技”に好感度が高まったと想像するに難くない。

慌てたのが磯村陣営だ。磯村はNHKで海外特派員を歴任し、フランス語など語学に堪能。日本のテレビ報道における欧米型のニュースキャスターの草分け的存在だが、反面、本人の著書のタイトル「ちょっとキザですが」にもあるように、エリートの印象が世間的には強かった。「庶民派」を演出するために銭湯で学生に背中を流させるパフォーマンスで対抗したが、違和感を覚えた視聴者は多かった。当時筆者もテレビでそれをみたとき家族と「磯村さんが無理をしているね」と会話した記憶がある。選挙プランナーの第一人者、三浦博史はこう喝破している。

「普段はラグジュアリ・ホテルのジャグジーにしか入らないような人が、選挙の時だけ庶民派を装って銭湯に行くなんてふざけるな、と反発を喰らったのだ」出典;「洗脳選挙」(2005年、光文社)

もう一つ、磯村の言動に筆者が高校生ながら当時抱いた違和感がある。政策発表をした記者会見で「都知事の座に連綿としない。長くて2期8年」と言い切ったのだ(出典;毎日新聞)。おそらく鈴木の多選批判への注目を高め、クリーンさを強調する狙いもあっただろう。結果論かもしれないが、任期を自ら設定すれば政治的求心力の低下は否めない。まだ就任もしていない新人候補者がわざわざ期限を設けたことへの違和感も強く残った。

結局、都知事選では磯村は143万票にとどまり、鈴木が229万票と50%近い支持を集めた圧勝に終わった。

小沢はなぜ鈴木の推薦を出さなかったのか

それにしても、小沢はなぜ鈴木に推薦を出さなかったのか。

興味深いのは、当事者である鈴木の回顧録『官を生きる』を読んでも、鈴木・小沢会談では、世論調査以外の明確な理由が示されていない。朝日新聞が当時の小沢の取材をまとめた本を読んでも、粕谷たち東京の議員にも説明がなかったことが見て取れる。公明党が推薦を出さない理由を尋ねた鯨岡にいたっては、小沢から「公明党に聞いたらいいじゃないですか」と突き放されたという(出典;朝日新聞政治部「小沢一郎 探検」)。

当時の小沢は、竹下登や金丸信ら師匠筋の政治家たちが調整型だったのに対し、「剛腕」の名にふさわしいトップダウン型で物事を進めるのが特徴だった。若い上に、その頃の自民党では異色の存在だったわけだが、新人議員だった山本拓や小林興起が、朝日の取材に対し、「説明不足」「討論なく先に結論ありき」と指摘しており、党内で「小沢流」に反発が多かったことがわかる。

都知事選に至るまでの国政事情を眺めると、1989年の参院選で自民党が歴史的惨敗で過半数割れとなり、衆参のねじれが発生。小沢は、公明、民社との協力関係、いわゆる「自公民路線」を強化する。さらに1990年から91年にかけ、イラクのクウェート侵攻に端を発する湾岸戦争で、日本も多国籍軍への人的協力が求められ、掃海艇の派遣など自衛隊が初めて本格的に海外に部隊を派遣するかどうかを巡って国会が大揺れした。その翌年のPKO法案成立など自公民路線の強化は小沢に国会運営上、不可欠だった。

そうした事情に加えて、公明側も、都政の運営方針などを巡り、鈴木と距離を置いていた、とされる。小沢としては、公明側の事情も汲んでいたことが、おそらく「鈴木切り」の判断材料の一つになったとみえる。

いずれにせよ、東京選出の国会議員ら地元の意向よりも、小沢らが国政の都合を優先したことで分裂選挙に突入。異例の選挙戦は白熱し、パフォーマンス合戦が繰り広げられる「劇場型選挙」に舵を切るきっかけになってしまった。

都知事選が「見世物化」〜壊し屋の功罪

ワイドショーも含め、テレビが連日ヒートアップし、「見世物」と化した都知事選では、ロック歌手の内田裕也が突然出馬表明し、政見放送を得意の英語で喋りまくる空中戦を披露=YouTube=。そして発明王・ドクター中松が選挙デビューを飾ったのもこの都知事選。自作のジャンピングシューズで都内を飛び回り、選挙終盤には、ギターを弾く内田と、ジャンピングシューズで飛びまくる中松のコラボレーションまで実現し、そうしたお祭りムードがスポーツ紙の紙面を飾った。余談だが、中松はその後も含めて都知事選には計7度出馬。後年のマック赤坂らを始め、都知事選の“泡沫”候補たちの独自の戦い方がマニア的な注目を集めることになる。

こうした経緯を振り返ると、仮に小沢が磯村を無理に擁立せず、鈴木にもう1期だけ務めさせていれば、95年に出馬した内閣官房副長官の石原信雄にスムーズに禅譲し、全く違う流れになったのではないかという見る向きもある(出典;「週刊東洋経済」2014年2月1日号「ミスターWHOの少数異見」)。歴史にイフはないとはいえ、91年に劇場化、テレビ選挙の下地が整っていなければ、95年の青島幸男の当選は無かった可能性もある。実際、それ以降、政策のプロより知名度や大衆人気ありきの流れが強まってしまった。

その一方で、1991年の都知事選を「犠牲」に自公民連携を強め、公明党とのパイプを太くしたことが、のちに小沢が自民を離党し細川連立政権誕生へと至る流れを作ったという解釈もできるだろう。

1994年の細川政権、2009年の民主党政権と、2度の政権交代を果たした小沢は後世の政治史研究でその功罪が検証され続けるだろうが、どのような形にせよ、「壊し屋」が残した業績の一つに都知事選が入るのではないだろうか。(敬称略、第3回に続く)

《主要参考文献》

  • 「都知事」(佐々木信夫、中公新書、2011)
  • 「小沢一郎探検」(朝日新聞政治部、1991)
  • 「官を生きる: 鈴木俊一回顧録」(都市出版、1999)
  • 「時代の証言者」(読売新聞解説部、2005)
  • その他、当時の新聞記事等