任重くして道遠し

森信三先生は「学問における自覚」ということで、次のように言われています--直線は如何に延長するも、ついに直線を出でず。それが円環となるには、直線は自らの進路を遮断せられせられて、無限にその方向を転ずるの極、ついに円と成る。学問における自覚もまたかくの如しとやいうべけむ。

森先生が言わんとしている内容を考えてみるに、之は何も難しい事柄を述べられているわけでなく、学問の世界とは永遠に続くということだと私は解釈しています。では何ゆえ永遠に続くかと言うなれば、結局いつまで経ってもある意味解が出てこないからでしょう。

論語』の「泰伯(たいはく)第八の七」で、曾子(そうし)は「士は以て弘毅(こうき)ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す。亦(また)重からずや。死して後已(や)む、亦遠からずや」と言っています。

任重くして道遠し--人道を極めるとは正に重く遠い道程であって、行けども行けども答えに容易に辿り着けないものなのです。之で御仕舞という所なくそれを探し求めて、ずっと学問をし続けて行くのが学問の世界ではないかと考えています。

直線の世界というのは、ある意味結論が見えるのではないでしょうか。中々そこに到達できずに延長せねばならない、といったことも時には有るかもしれません。しかし此の道を歩んで行けば何れ解に巡り合える、とは分かるものだと思います。

他方で円というのは直線の如く単純でなしに、果たして自分の悩みが正しいのか否かすら、延々見えてこない位の大変な世界であります。森先生が言われるように「円環となるには、直線は自らの進路を遮断せられせられて、無限にその方向を転ずるの極、ついに円と成る」とは正にその通りです。

佐藤一斎の「三学戒」にあるように「壮にして学べば老いて衰えず…壮年になって学べば、年をとっても衰えず、いつまでも活き活きとしていられる」というわけで、棺桶に入るまで学を磨き続けねばならないものと捉えるべきだと思います。

「年五十にして四十九年の非を知る」(淮南子)、「行年六十にして六十化す」(荘子)という言葉があります。何歳になろうが兎に角一生修養し続けるという意識を持って、自己の向上を目指す努力を惜しまず、死ぬまで学を続けて行くことが大事なのだと思っています。

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