ブラウナウの人々の憂鬱〜ヒトラー生家の町

長谷川 良

オーストリア内務省は27日、オーバーエスタライヒ州西北部イン川沿いのブラウナウ・アム・イン(Braunau am Inn)にあるアドルフ・ヒトラーの生家を家主から強制収用できる法案の審査に入ったことを明らかにした。国がヒトラーの生家を強制的に買い取ることを決定した背景には、ヒトラーの生家がネオ・ナチ関係者のメッカとなることを恐れたからだという。ヒトラーは1889年4月20日、ブラウナウ(人口1万7300人=2009年)で生まれた。


▲ヒトラーの生家があるブラウナウ(ウィキぺディアから)

オーストリア側は1972年以来、生家の家主との間で借用契約をしてきたが、購入は家主側の反対で実現できなかった経緯がある。オーストリア通信(APA)が27日、報じた。

当方は1990年頃、ヒトラーの生家を訪ねたことがある。生家を訪ねたのはその時が初めてだった。ウィーンから電車で当時、5時間以上はかかったと思う。地理的に遠いこともあったが、ブラウナウを再度訪問することはなかった。

30年以上経過したので当方の記憶は完全でないが、ブラウナウの駅に着いて直ぐに町の情報センターを訪ね、「ヒトラーの生家はどこですか」と聞いた。すると、関係者は当方の顔を見ながら、「知らない」と答えるだけで、それ以上何も説明しない。ブラウナウは小さな町だ。そこで外国人旅行者が足を踏み入れるとすればヒトラーの生家を見学することぐらいだろう。ヒトラーの生家を訪ねたのは当方が初めてではないはずだ。しかし、情報センターの関係者は「知らない」という。「それ以上、聞くな」といった響きを感じたので、歩き出して路上の人に聞いた。数回、尋ねた後、ヒトラーの生家にようやくたどり着いた。

オーストリア国民で独裁者ヒトラーを誇らしく感じる人が少ないのは分かるが、その生家の住所すら外部の人間に隠そうとするブラウナウの人々に驚かされた。民族の誇りだったら、看板やパネルでその生家の場所を記すだろう。例えば、モーツアルトがオペラ「フィガロの結婚」を作曲した場所を示すパネルはシュテファン大聖堂近くにかかっている。もちろん、モーツアルトとヒトラーを同列に扱うべきではないが……。

ヒトラーの生家は当時、福祉更生施設だった。施設の人々が作業していたのを思い出す。当方は外から写真を撮ったが、施設内は撮影できなかった記憶がある。欧州全土を戦火に巻き込んだ独裁者の生家が福祉関連の更生施設となっているのに驚いた。もちろん、ヒトラーの生家は歴史博物館ではないので、ヒトラー関連資料などはまったくなかった。

当方がオーストリアに住みだした当初、国民はヒトラーに対して極度に神経質な時だった。「オーストリア人はベートーベンをオーストリア人だといい、ヒトラーをドイツ人と主張している」と皮肉っていた知人もいた。「モスクワ宣言」で“オーストリアはヒトラーの犠牲国だった”となって以来、国民はナチス・ドイツの犠牲国の立場を死守してきた。その歴史観を根底からひっくり返したのがあのワルトハイム大統領(1986~92年)のナチス・ドイツの戦争犯罪容疑問題だ。世界ユダヤ人協会が世界のメディアを動員してワルトハイム氏を糾弾したことはまだ記憶に新しい。その後、フランツ・フラニツキー首相(任期1976~1997年)が「わが国もヒトラーの戦争犯罪に責任がある」と表明し、犠牲国から加害国であったことを初めて認めている。

ブラウナウはイン川沿いの町だが、川を渡るとドイツのバイエルン州に入る。もし、ヒトラーがイン川を渡った数百メートル離れたバイエルン州で生まれていたら、ヒトラーは生粋のドイツ人となり、ブラウナウの人々もヒトラーに対しまったく別の思いを抱くことが出来たかもしれない。当方は当時、ブラウナウの人々の憂鬱さが少し理解できたように感じた。

今年は戦後71年目だ。当方が今、ブラウナウを訪問し、ヒトラーの生家のアドレスを聞くならば、彼らは何と答えるだろうか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年5月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。