織田信長の娘で信康夫人だった徳姫が信康が粗暴で、築山殿は武田と通じていると言ってきたので、真偽を安土にやってきた徳川家の重臣で信康付きの酒井忠次に問いただしたところ、否定しなかったので信長は信康を切腹させるように指示し、家康にとっては青天の霹靂で無実だったのに承知せざるを得なかったというのだ。
しかし、いまでは、家康と信康のあいだには、相当に深刻な対立が有り、酒井忠次も危険を感じるほどだったことが明らかになっている。
そもそも、築山殿と信康は家康を裏切るだけの理由があった。築山殿は今川一族の関口親永の娘で、桶狭間の戦いの時には駿府にいた。ところが、家康は岡崎に留まり、やがて、今川を見捨て織田と組んだ。そこで、家康は人質をとって今川氏真を脅し、築山殿と信康と妹(のちの奥平信昌夫人)を取り戻したが、氏真は築山殿の父母である関口親永夫妻を死に追い込んだ。これでは、築山殿と信康が家康を快く思わないのは当然だ。
成人した信康は信長の娘徳姫と結婚し、岡崎城を譲られて築山殿も個々に留まり、家康は単身で浜松城に移った。信康は粗暴だが武将としては有能で、家康と16歳しか離れていないので自己主張が強かった。この時代の若い殿様としては、異常ではないが、領民や部下への残虐行為は事実だし、榊原康政が諫言したら殺すと脅した。
武田方との内通は、築山殿だろう。しかし、信康は積極的には関与はしていないにしても、まったく知らなかったとは考えにくい。家康を除いて武田に乗り換える選択はもともとあり得たのである。
異母弟の秀康の認知をしぶる家康を強引に説得して認知させたというように、若武者らしく明け透けな信康は、ケチで慎重すぎる家康より人気があった可能性もある。
信康を謹慎させたあと、わざわざ家臣たちに信康と連絡を取らないように命じているのはそのへんの事情を物語っている。御曹司の副社長が部下から好感を持たれて力をつけてきたので、まだ引退する歳でもない父親の社長が怒って息子を会社から追い出そうといったパターンだ。
信長の方から娘婿信康を排除する動機はない。酒井忠次を使いに出して信康排除の相談を持ちかけ了解を求めたのは家康の方だ。信長が「家康の思い通りにせよ」といっただけだと記録にあることもそれを裏付ける。
ただし、家康が廃嫡などに留めるつもりだったのを、弟などの裏切りにあった経験がある信長が、廃嫡するなら生かしておくのでなく殺せと言った可能性はないわけでない。
いずれにせよ、家康は信長や秀吉が死んだあとも、築山殿や信康の名誉回復をしてない。残された娘たち(本多忠政と小笠原秀政の夫人)や妹(奥平信昌夫人)はいずれもそれほど厚遇されていない。
晩年の家康が信康を甘やかして育てたことを悔いたり、忠次らの補佐が十分でなかったことをなじるようなことをいったことはあるが、処分そのものを後悔していた節はない。