ワイルドもチューリングも悩んだ

同性愛者は「価値の平等」を要求すべきだ。同性愛者への差別は許されないし、如何なる刑罰も性差を理由に課すべきではない。同時に、同性愛者は通常の男女間の婚姻と同じ「位置の平等」を求めてはならない。この黄金律を受け入れなければならない。「位置の平等」を認めると、社会秩序が崩壊し、子孫繁殖という生物上のルールを破壊することになるからだ。

平等には、「価値」と「位置」の2通りがある。同性愛者を含む全て人の価値は平等だが、位置は各自、異なっている。“天上天下唯我独尊”は人間の価値は平等であり、各自が普遍の価値を有しているという意味だ。しかし、釈尊は全ての人が位置でも平等だとは主張していない。
同性愛者が「価値の平等」を訴えることは当然だが、「位置の平等」を求め出した瞬間、その運動は社会秩序の破壊者となる。社会は男女間の婚姻を奨励し、その婚姻から生まれてくる新しい命を祝福する。その社会に同性婚の権利を主張することは、大げさに言えば、社会への革命宣言だ。

当方はアイルランド出身の英国劇作家オスカー・ワイルド(1854~1900年)の小説や劇が好きだ、「幸福な王子」は当方が何度も読み返した数少ない本だ。オスカーの台詞、発言は世界の至る所で引用されている。そのオスカーは同性愛者だった。同性愛問題が社会のタブーと受け取られた時代に同性愛者として批判されたパイオニア的人物だ。ワイルドが刑務所生活を送っている時、家族は名前を変え、社会の批判から逃れた生活を送らざるを得なかった時代だ。

そのワイルドは以下のように語っている。

「自分らしくあれ。ほかの人の席はすでに埋まっているのだから」
‘Be yourself; everyone else is already taken’

ワイルドは、自身に与えられた「価値」を発揮せよと呼びかける一方、一つの席に同時に座ることはできない、という事実を明確に認識していた。すなわち、「位置の平等」はあり得ないことを知っていた。

ワイルド死後に生まれた英国の数学者で人工知能の父といわれるアラン・チューリング(1912~54年)も同性愛者だった。チューリングの伝記が映画化されたばかりだから、映画を観られた読者は彼の悩みをご存じだろう。ワイルドもチューリングも同性愛者として社会に統合できずに苦しんだ。当時は同性愛者の位置だけではなく、価値の平等も保証されていなかった。

欧州では同性婚は次第に市民権を獲得してきた。それを可能にした最大の原動力は、あの「寛容」という魔法の言葉だ。人は等しく「寛容」でありたいと願っている。なぜならば、自身の弱さも認めてほしいからだ。だから、同性愛者は社会の寛容さを誤解し、過大評価してはならない。

民主主義は「価値の平等」には首肯するが、「位置の平等」の保証は与えていない。人は「価値の平等」という祝福を受けて誕生するが、「位置」は出産直後から異なっている。人は生まれた時から不平等だ。人はその事実を虚飾して、「人は(価値も位置も)平等だ」とラッパを吹くことは悪魔の囁きに過ぎない。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年6月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。