秩序を維持するのは国民の心理:『国際秩序』

池田 信夫
ヘンリー・キッシンジャー
日本経済新聞出版社
★★★★★


Brexitで世界が大混乱に巻き込まれているとき、この訳書が出るのはグッド・タイミングだ。本書は古代ローマから現代までの「世界秩序」を語る壮大な歴史だが、それを貫くのは、キッシンジャーのリアリズムである。

それは第一に国際政治は理想や善意ではなく力の均衡で決まること、第二にウェストファリア的な国家主権は戦争の抑止力にはならないこと、第三に国連やEUのような国際機関も頼りにならないので各国が相互不干渉の原則を守るしかないことだ。

1928年の不戦条約で「正しい戦争」という概念は廃止されたはずだったが、その後も世界大戦は起こり、冷戦は続き、国連は国際連盟と同じく無力である。こうした国際的アナーキーの中で、アメリカが中東などで「世界の警察」の役割を果たしてきたが、その結果はさらなる混乱だった。イスラム難民のあふれるヨーロッパは、危機的な状況にある。

そして次のアナーキーの原因となりそうなのは、アジアである。近代的な国家の概念が、中国にはもともとない。そこでは伝統的に全世界がその版図であり、対等な国家が条約で平和を維持することもない。華夷秩序は厳然たる上下関係であり、皇帝に臣下が従うように周辺国は中国に従う。

このように利害の異なる国が妥協した歴史をもたない点では、アメリカも似ている。それは生まれたときから自由と民主主義の国であり、英本国という共通の敵はあったが、各州が戦争することは(南北戦争を除いて)なかった。彼らは自国の正義が世界に普遍的なものだと信じるナイーブさにおいて中国と似ているところがある。

この信念は冷戦期に強まり、「悪の帝国」である共産主義を滅ぼすことがアメリカの理想となったが、共産主義は幸い自滅してしまった。その後は中東などにアメリカの正義を売り込んだが、これは冷戦ほどうまく行かなかった。もう「アメリカの正義」を世界に売り込むのはやめるべきだ。

しかしアメリカが、第2次大戦前のような孤立主義に戻るのも誤りだ。新興秩序が既存秩序に挑戦した歴史上の15件のうち、10件で戦争が起こった。主権国家の有効性は疑わしいが、国際機関も機能しないので、世界の秩序を維持する役割を果たせる国はアメリカ以外にない。

国際秩序で重要なのは、軍事力よりも宗教や文化的伝統のような秩序概念だという。リアリストのキッシンジャーが、秩序のコアは国民の「心理的な同一性」だと考えているのは興味深い。この意味で、イスラム難民を大量に受け入れるEUの実験の失敗は、必然だったのかもしれない。