偽善不足

若井 朝彦

ネットやテレビや新聞で都知事選の推移を眺めていて、当事者の分別のない言動には愕然とした。この稿のタイトルに沿っていうと、偽善にすら達していない不様な行いがあまりにも多い。援護射撃にもならず、味方に銃を向けている者さえいたが、困ったことにそういう人間に限ってその自覚がない。首都の知事選をやっているというのに、まじめにやっているのかどうかを問いたいほどのレベルである。

「善」と「偽善」を比べれば、もちろん「偽善」の方が分が悪い。政事世事に偽善はあふれているが、そのほとんどは、いわゆるタテマエの世界に棲息している。

体面を保たったり、また見栄を張ったり、言いつくろったり、ごまかしたり、うやむやにしたり、時間稼ぎをしたり、あるいは責任転嫁に偽善は役立っているわけだ。

この点では、「嘘も方便」と似ていなくもないが、その目的、こころざしにおいてまったく別物である。だが偽善を演じられる者は、すくなくとも物事の良し悪しは知っているはずだろう。そうでなければ「善」のフリはできない。

その限りにおいては偽善者には交渉のための接点がどこかに見える。

ということで偽善概論をひとまず終って、以下は偽善にも達していなかったのではないか、という例。

極めつきが民進党岡田党首。投票日前日に秋の党首選不出馬を表明したわけだが、支援候補が劣勢の中、

 「私として自身の達成感がある。」
  (毎日新聞のWEBより)

という能天気な発言は、一体なんなんだろう。日本中から「来週にせえよ!」という突っ込みがあったものと思われるが、氏は参院選でもう満ち足りたのであろうか。岡田氏のプロフィールには

 「趣味は選挙」

と書いてあるのかもしれない。それとも新聞に「都知事選の結果などを踏まえて不出馬」と書かれるのが、よほど嫌だったのだろうか。どっちにしたって迷惑で気の毒なおはなしだ。

野党党首と対になるのが与党自民党安倍党首。結局のところ推薦候補の応援演説には入らなかった。「地方創生」なんてどこ吹く風。

増田候補は、党首がみずから口説いた候補ではなかったわけだし、手元に劣勢の情報があったからだろうが、このネグレクトは、ただでさえ人材払底の折から、今後、候補者スカウトにも影響が出るだろう。

対立する小池候補が当選確実だったとしても、自党の候補の応援をするのは偽善というより義務に近い。敗戦の処理をし、講和に至るにしても、小池氏はいかにも継ぎ手の多い人であるし、なんとでもなるだろう。偽善の力を借りても、党首としての信義を維持すべきだったと思う。もっとも与党も与党で、先の参議選においてすでに「達成感があった」ようではあったが。

その他、数え出したらキリがない。告示直前に参戦を表明。だが東京都知事としての政策はほぼノープラン。街頭演説はあまりやらないし、しゃべりたがらない。討論会はしばしばキャンセル、スキャンダルにはジャーナリスティックな反撃よりもまず訴訟という候補者がいたが、あれは青島選挙の再現を狙っていたのだろうか。そこまでの考えがあったとも思われないが、どうもよくわからない。

開票がはじまってもインタヴューや記者会見を受けたがらない人が多かった。また自民党東京都連会長の石原氏はいみじくも

 「議員の皆さま、各種団体の皆様、本当に申し訳ございません」
  (日刊スポーツのWEBより)

と述べたようだが、その前段として、有権者である支持者一般にはどの程度お詫びをしたのだろうか。身内に詫びたければ、いくらでもどうぞご自由にだが、すくなくともそれは後回しにすべきであって、偽善の論理から言えば、非公開の場が望ましい。

またその父で、元代議士元東京都知事で、かつ作家の石原氏は、女性としての年齢と容姿をからめて候補者を批判。発言は利敵行為だともオウンゴールだとも評された。このあたりになると善悪を飛び越して幼児の悪口以上のものではなかった。

氏の世代の日本人のそれも男性は、「男を上げる」だとか「下げる」だとかいう言葉には敏感であったはずで、高齢とはいえ、氏の脳裏にもまだこの語彙は残っていると思うのだが、どうも違ったようである。

そのうち日本にもアメリカの大統領候補、トランプ氏のような放言派が増えてくるぞ、とわたしは思っていたけれども、むしろそれより先にTOKYOにいたのか。

だが、大英帝国保守党党首選から逃げ出したボリス・ジョンソン氏の例もある。自身の立場を忘却した心神喪失的行動は、政治の世界では国際的に流行しているのかもしれない。

こう考えてくると、ぎりぎりの偽善というものは、責任感の最後の砦であるともいえる。

2016/08/01 若井 朝彦

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