神父の独身は“愛の戦場”の兵役逃れ

長谷川 良

ドイツは欧州連合(EU)の盟主を自他と共に認める欧州の大国だ。ドイツ人のベネディクト16世がローマ法王だった時ほどではないが、ドイツ国民には熱心なカトリック信者が少なくない。もう少し現実的にいえば、ローマ法王への献金額ではドイツ教会は欧州一だ。その一方、信者数は年々、減少し、聖職者の数も少なくなる傾向にあり、昨年、ドイツ教会では新たに神父になったのは58人だけだった。

新たに神父となった聖職者の数が教会の規模からみていかに少ないかは、神父のいない教区も少なくないことで明らかだ。にもかかわらずに、独ケルン大司教区のライナー・マリア・ヴェルキ枢機卿は、「聖職者不足ゆえに、聖職者の独身制を廃止すべきだとは考えたくない」と断言する(バチカン放送独語電子版8月31日)。もちろん、聖職者不足は教会の独身制だけが理由ではないが、将来、家庭を築きたいと願う若き神学生が神父の道を断念するケースがあることも現実だ。

同枢機卿は、「独身制は時代遅れであり、その価値が失われてきたという声を聞くが、そうとは思わない」と強調する。それに先立ち、独カトリック教会中央委員会(ZdK)は「既婚聖職者や女性聖職者の登用」を擁護する発言をしている。

なぜ、独身制の維持に拘るのだろうか。当方はこのブログを開始して以来、カトリック教会の独身制の問題を考えてきた。当方の立場は独身制の廃止だ。家庭問題をカトリック教会の主要テーマとしながら、家庭を持ったことが無い男たちがどうして信者たちの真の助け手となれるか、といったシンプルな疑問がある。

南米出身のフランシスコ法王は就任以来、バチカン法王庁内の改革に乗り出しているが、独身制問題では前任のベネディクト16世と変わらない。バチカン法王庁のナンバー2、国務長官のピエトロ・パロリン枢機卿は2月6日、「ローマ法王フランシスコは聖職者の独身制の改革を考えていない」と証言している。

ベネディクト16世は「独身制は神の祝福だ」という一方、「聖職者の独身制は信仰(教義)問題ではない」と認めている。教義ではないのならば、本来、廃止も修正も容易ではないだろうか。

何度も記述したが、再度書く。
「カトリック教会では通常、聖職者は『イエスがそうであったように』という理由から、結婚を断念し、生涯、独身で神に仕えてきた。しかし、キリスト教史を振り返ると、1651年のオスナブリュクの公会議の報告の中で、当時の多くの聖職者たちは特定の女性と内縁関係を結んでいたことが明らかになっている。カトリック教会の現行の独身制は1139年の第2ラテラン公会議に遡る。聖職者に子供が生まれれば、遺産相続問題が生じる。それを回避し、教会の財産を保護する経済的理由が(聖職者の独身制の)背景にあったという」

聖職者が家庭を持てば、家庭問題を抱える信者への牧会にプラスだが、同時に、聖職者の家庭が離婚問題に直面するかもしれない。イエスを新郎とし、イエスと結婚していると信じる多くの修道女に動揺が起きるかもしれない。家庭を持った故に、愛は聖書の中の問題ではなく、日常生活の課題となる。

そのように考えていくと、カトリック教会が独身制を廃止できない本当の理由が浮かび上がってくる。ヴェルキ枢機卿が説明する「時代の要求に迎合することで問題は解決されないからだ」という説明だけでは十分ではない。

家庭は心の憩いの場所であると共に、愛の戦場だ。カトリック教会の聖職者がその戦場で“愛の勝利者”となる自信がないから、独身制の廃止に踏み出せないだけではないか。愛の勝利者となれば、「来るな」といっても人は自然に集まってくる。愛の戦場からの兵役逃れに人は魅力を感じ、その教えに耳を傾けるだろうか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年9月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。