超スマート社会の空想を求む

AIの開発競争で日本が出遅れたという記事が目立ちます。IBM、Google、Appleなど米企業がAI研究に先行している、日本政府は「人工知能技術戦略会議」を置いて開発に檄を飛ばすが手遅れでは、といったトーンです。

人工知能の開発は80年代の加熱がしぼんでから日本は静かになり、ぼくが90年代末にMITメディアラボにいたころもAI一派がブイブイいわせていたものの、日本企業の関心は薄れていました。

ここに来てディープラーニングで再び火が点いて、慌てたころにはもう税金で大学が取り組むレベルではなく、米企業が兆円単位の資金を投ずる競争になっていました。日本の出遅れは大学の人材問題ではなく、企業の投資問題です。

勝機があるとすれば開発面ではなく利用面でしょう。IT・モバイル技術の利用で女子高生が絵文字や写メを文化にしたように。米国産技術の利用でTVゲーム産業を産んだように。

ポップカルチャーなどの得意分野で、あるいは福祉・介護や防災などの日本が課題先進国として取り組むべき分野で、新技術を先導的に取り入れて、産業・文化を産めばいいと考えます。

そして政府は、AIを積極的に利用するよう誘導する。まずは審議官ポストをAIに与えるなどして、政府自らAIを使うぐらいの本気度を示すのがよろしい。

ただ、AIを投資と売上の対象として見るのは大事ではあるけれど、それでは大勢を見誤ります。

AIやIoTを「第4次産業革命」=Industry 4.0と呼ぶならわしとなりつつあります。1次:軽工業、2次:重工業、3次:情報産業に次ぐものだというのです。

だが、これは「産業」革命なんでしょうか。そりゃ産業が真っ先に革新されるでしょうが、文化や社会にもたらす影響のほうが大きいのではないでしょうか。

第3次と位置づけられるITにしても、ぼくらにとって産業革命だったんでしょうか?それ以上に文化革命ではなかったですか?IT産業の成長や業界のIT化よりも、誰もが情報装備し、情報発信するようになった変化のほうが大きいと思うんですが。

17世紀の産業革命が300年に一度の変化だとすれば、ITによる情報革命は1000年に一度の表現の革新だと思います。AI/IoTは人類が到達したことのない、10000年に一度の革新ではないでしょうか。それを「産業」に押し込んでは、戦略も過小なものになりはしませんか。

そこで日本政府は第4次産業革命と並び、超スマート社会への取組を「Society 5.0」と称することにしました。1:狩猟、2:農業、3:工業、4:情報に次ぐ5番目の「文明」変革だというものです。このほうがAIやIoTの間尺に合います。

今回、情報通信白書2016は、ITの消費者余剰に着目しました。ITの価値はGDPでは測れない。産業の売上が大きくならなくとも、利用者の金銭・時間・心理的な効用は大きい。それは産業の価値を超えて、社会・文化を含む、文明としてどうとらえるかの問いでもあります。

AIが投資や売上にどういうインパクトを与えるか、よりもAIに期待することは、AIが文明をどう揺さぶろうとしているのか。それを測る指標を持って、対策を立てたい。ですが、その取組はようやく始まったばかりです。

こんな話はむかしからあります。
郵政省に「ニューな茶のみ環境を考えるハイエージメディア対策本部」という研究会がありました。ネット前夜の1992年。脳のダウンロード、表象のみでのコミュニケーション、盆栽翻訳通信などを展望しました。
いとうせいこうさん、しりあがり寿さん、AV女優の豊丸さん、宜保愛子さんらが委員で、ぼくが事務局。不謹慎だと週刊誌に叩かれもしました。
しかしこれは、ネットの登場を目前に感じつつ、技術と社会の変化を空想する試みでした。
まだ政策立案が自由だった時代です。

ネット社会が見えてきて、ITの普及を産業革命とみるか、より大きな社会経済の変化とみるかで青臭い議論もありました。ぼくが20年前に著した「インターネット、自由を我等に」は後者に立っていましたが、コイツ何言ってんだという評価でした。
90年代後半にぼくは政策現場を離れてMITメディアラボに参加します。そこではAI、IoT、ロボティクスがメインテーマでした。当時もそれがどんな可能性を持つか、大いに空想しました。15年たって、その空想が実装されようとしています。

改めて、空想が必要です。
15年前は技術の空想でした。

いま欲しいのは、それが実現した後の社会経済の空想です。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2016年9月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。