来日したドゥテルテ氏に見られるのは、政治家あるいはリーダーとしての決断力、行動力である。「アメリカはフィリピンを長く植民地とし、フィリピン人を抑圧し、虐殺もした。その米国大統領に麻薬犯の取り締まりが人権蹂躙などと言われたくない」「植民地化、侵略という過去の歴史を考えたら、上から目線でえらそうに言える身分か」。
言いたい放題で、オバマ大統領と米国政府を批判する。正直、胸のすく思いだ。憧れさえ抱く。日本もアメリカには国際法違反の東京など大都市への大空襲や広島、長崎の原爆投下を実施された。占領下では言論・報道の自由が著しく制限され、教育改革や憲法改正でも国際法違反の押し付け政治をさんざんやられた。
だが、日本のマスコミは今、私が書いた程度のことも言えない。米国はどう思うか。つねにそう考え自己規制して羊のように判断し、行動しているのが日本のメディアであり、政府である。そこがドゥテルテ氏との大きな違いである。
ドゥテルテ氏は中国の習近兵国家主席との会談では中国との協調、友好を強調しつつ、2兆5000億円の経済協力金を引き出すことに成功した。
一方で、安倍首相との会談では「両国の友情とパートナーシップの強化」を強調、習近平国家主席との会談では直接の言及を避けた仲裁判決について、「同判決の範囲外の立場を取ることはできない」と拘束力を持つとの立場を強調した。
米国に対しても、経済的、軍事的協力を否定するような大胆な話をする一方で、「米国との外交関係を断ち切るわけではない」とも語る。
要するに、フィリピンにとって必要なものは中国からも日本からも、米国からも頂く、「第一に掲げるのはフィリピンの国益だ」という点でドゥテルテ氏の行動は一貫している。その範囲内で相手が嫌がることでも「言いたいことは自由に言わせてもらう」という姿勢である。それをフィリピン人は高く評価し、同氏は圧倒的な支持を得ている。
日本でドゥテルテ氏に近い行動力を示せたのは石原慎太郎氏、あるいは、石原氏が「天才」として再評価する田中角栄・元首相だろう。角栄氏は様々な問題を解決する器量と決断力を示すことができた。
しかし、米国はその「天才」をもロッキード事件で社会的に葬り去る力を持つ。それを知っているからこそ、角栄氏ほどの実力のない日本の政治家は思いきった行動に出れない。
怖いのは米国だけではない。日本の野党であり、何よりも世論、有権者である。法的には稼働してなんら問題のない原子力発電所を動かせないのは一例だ。国民が「怖い、不安」と恐れる原発は原子力規制委員会のお墨付きがないと、動かさない。2011年の東日本大震災以来、停止している原発のムダなコストは10兆円をはるかに超えている。それがあれば消費税率を引き上げなくてもやれたという規模だ。
支持率の高い安倍首相は、野党や世論の反発の強い集団的自衛権の行使容認には動いたが、それは米国の推奨していることであり、それ以上には動いていない。
好例は憲法改正だ。自民党や日本維新の会などいわゆる「改憲勢力」が衆参両院で発議に必要な3分の2 を超えたにもかかわらず、憲法論議が一向に前に進まない。
安倍首相は世論の反発で、支持率が下がることを恐れ、「各党間の自由闊達な議論をしてもらいたい」「国民からも憲法 改正を理解してもらえるよう進めてほしい」と求めるだけで、それ以上の行動には出ない。極めて慎重だ。
山田吉彦・東海大学教授は尖閣諸島への中国侵略に対抗するには今すぐにでも、尖閣に海洋開発、環境保護の責任者を送り込んで、尖閣諸島を日本主導の国際的な海洋開発の拠点にすることが大切だと説く。結果として尖閣諸島を領土として確保する有効な政策になるとして、安倍首相に一歩踏み込んだ行動を期待している。
だが、そんな動きも今はない。「今そこにある危機」に対して極めて不活発な動きしか示せないのが、日本の政治である。
フィリピンでは麻薬被害が深刻で、麻薬犯をその場で殺害するような超法規的な警備をしなければ治安が保てないという厳しい状況にある。平和な日本とは決定的に異なる。だから、ドゥテルテ氏は思いきった行動がとれる。是非は別にして、日本はフィリピンよりも政治的に成熟し、安定した国家だから、思いきったことはできないとも言える。
だが、それにしても、ドゥテルテ氏ならば、日本でもっと思いきった判断と行動をしているのではないか。それはリスクを伴う。下手をすれば、米国の離反と中国の支配を招く危険と隣り合わせの外交をドゥテルテ氏は進めている。
が、それを「うまくやる」自信と意欲が、ドゥテルテ氏にはある。そう感じさせる昨今だ。リスクは最小限にしなければならない。だが、ある程度のリスクを覚悟しなければ、米国の軍事外交力が低下し、「Gゼロ」と言われる現在の国際社会を乗り切れない。
今一歩、踏み込んだ政治外交を、安倍首相に望みたい。